夏休みまであと何日・・・

2006-06-14 mercredi

週末は箱根へ。
恒例のFィ-ド社、Lナックス・カフェ社、X2E2社の合同経営会議。
それぞれ多忙な四人が半年に一度一堂に会し、温泉に浸かりつつ、ビジネスについてのコンフィデンシャルな情報交換を行う集まりである。
私のことを仏文学者だと思っている人が多いが(思っていない人もいるが)、二十代に起業して以来、シビアで的確な資金運用によって巨富を築いてきた手練れのビジネスマンであることは世間にはあまり知られていない。
知られていない主な理由は上の表記のうち、「巨富を築いた」の部分が事実ではないからなのである。
だが、それは単に「まだ」事実ではないというだけであって、それが「いずれ」事実化する蓋然性について決して過小評価すべきではない。
かつてユーミンが歌ったように、未来はいつだって霧の中なのである。
今回の合同経営会議の議題はI川委員がプロデュースした「バートン・クレイン作品集」CDプロジェクトの収支報告。さらに同委員のM蔵小山へのカフェ展開の経営形態(キラー・メニューは「カレーうどん」ということに衆議一決)などが論じられた。
さらに「あっと驚く」ビッグトレードの話も熱く語られたが、むろんこのようなクラシファイドな情報をかかる場で公表することはできない。
ただ私が芦屋に「能舞台付き道場」を建設できる可能性がかなり高まったということだけはヨロコビと共にご報告させて頂きたいと思う。
多田塾甲南合気会関係者のみなさんは東京(とくに秋葉原)方面に向かって「満願成就満願成就」と朝夕の祈りを欠かさないように。

三日に及ぶハードでタフな四社会談を終えて新幹線で芦屋に戻り、そのまま大学へ。
毎日新聞と来週の紙面研究会の打ち合わせ。
どこの新聞でも「社外の識者から紙面について忌憚ないご意見を伺って拳々服膺する」ことをなされている。
「私たち、けっして読者のみなさんを高みからみおろして教化してやろうとか、啓蒙してやろうとか、そんな思い上がったスタンスじゃありません」というリーダー・フレンドリーネスをお示ししようというのである。
趣旨はまことに結構である。
だが、私がこれまで読んだ限りでは、識者諸氏のご指摘はあくまで「紙面」の批判にとどまり、「新聞」そのものについてのラディカルな批判がなされたことはない。
私に紙面批判を依頼してくるとは毎日新聞も無謀なことをしたものである。
周知のように、私は「悪口を言って下さい」と頼まれて遠慮するような人間ではない。
「え、ほんとうに思ってること言っちゃっていいんですか?」と頬を紅潮させるような人間である。
「誰だ! ウチダなんかに紙面批判頼もうって言い出したのは!」と社内的に紛糾して、何人かの記者が始末書を書かなければならないような事態を招来すべく全力を尽くしてご負託にお応えしたいと思う。

そのあと学院の施設関係の会議。
巨額のお金をどういうふうに使うかを決める会議なのであるが、本学におけるこの種の会議の例に漏れずに、とくに生産的な議論のないままに「まあ、落としどころはこの辺ですか・・・」的に全員不満顔でなんとなくことが決する。
本学におけるおおかたの決定がこういうかたちになってしまう理由は以下の通りである。

(1)経営についての中長期計画が存在しない
(2)経営についての中長期計画を立案し実行するのは「どの機関か」についての学内合意も存在しない
(3)にもかかわらず、過去数十年間「なんとかなってきた」という経営実績がある

私はこれまで(1)(2)の欠点を重く見て、明確な意志決定スキームの確立と合理的な指揮系統の構築の急務であることをたびたび主張してきたのであるが、さすがに最近はどうもこれは私の問題の立て方の方が間違っていたのではないかと思うようになってきた。
重視すべきなのは(3)の「これまでなんとかなってきた」の方なのである。
羅針盤も海図もないままに航行している船が難破もせずに座礁もせずに「なんとかなってきた」という事実があった場合、「この船には自主的に正しい道を選択する機能がビルトインされている」という仮説を導くことは論理的には誤っていない。
什器の類も長く手沢を重ねると命を持ち、洛中を「百鬼夜行」するようになる。
ならば、130年も存在してきた学校が「命」を持つようになっても少しも不思議はないのではないか。
もし、「学校」が固有の生命原理に基づいてその進路を自己決定する「主体」であるとすると、私どもがない知恵を絞って小細工をするより、もういっそ「学校」に行きたい方向をご自身でお選び頂くに任せてはどうか、という考え方も成り立つ。
私はなんとなくそんな気分になってきた。
いまの日本できっちりした中長期計画を立てて、その上で動いている大学など存在しない。
ファクターが多すぎて、未来予測の立てようがないのである。
人事を尽くして天命を待つ。
やれるだけのことはやった。病人の場合と同じく、あとは「学校」に生き延びる意志があるかどうかである。
「学校」が「まだ生き続けたい」と望めば、私たちが何もしなくても生き残るだろうし、「もういいよ」と思えば、私たちがどんなに努力をしても消え去るだろう。

業務連絡
7月22日に本学のオープンキャンパスで、私が講演をします。
お題は「僕が女子大を薦める理由」
女性は「時の守護者」であり、それを育てるのが女子大の使命であるということを『態度が悪くてすみません』の冒頭に書きましたけれど、「その続きが聴きたい」という入学センターのヒラヤマさんの個人的要望もあってこのタイトルに決まったようです。
つきましては企画広報の方から、「この講演に後援・協賛してくれる出版社新聞社があったら探して」というお申し出がありました。
講演させるばかりか、講演のスポンサー探しをも命じるというあたりに本学広報の「立っているものは親でも使え」思想が貫徹しておりますね。
そういうわけで、たいへん勝手なお願いではありますが、女子大論の講演に「後援・協賛」してくれる出版社・新聞社がありましたら、ご一報頂けますでしょうか。

・・・・でも、「後援・協賛」って何するんだろう。
新聞の場合はイベントを新聞で告知して、ということだろうけど、出版社に後援・協賛を頼んでどうするつもりなのであろうか(単に私がその出版社に「借り」が出来て、それからあとの仕事が断れなくなる・・・というだけのことじゃないんでしょうか。ヒラヤマさん!)
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