『私家版・ユダヤ文化論』脱稿

2006-03-29 mercredi

終日原稿書き。
『私家版・ユダヤ文化論』脱稿。
今年私が出す本の中で唯一学術的なものである。
『文學界』に去年の1月号から9月号まで連載していたものであるので、もうほとんど完成していて、枝葉を刈り取り、思いついたことをさくさくと書き込んでゆくだけ。
はじめて通読してみたが、なかなか面白い。
「たいへん面白い」と言っても過言ではない。
内容がというよりは、プレゼンテーションの仕方が、面白い(としつこく自分でいうのもどうかと思うが)。
私の性格の悪さがよく出ている。
性格の悪さというより、どんなことでも疑ってかかる猜疑心の強さというべきか。
人並みはずれて猜疑心の強い私がいちばん信用していないのは自分の判断の正しさである。
自分の判断力を信用できない人間がどうして論文なんか書けるのだ、と訝しむ方もおありになるだろう。
そこです。
これが書けてしまうのですね。
すらすらと。
なぜ、自分の判断を信用していない人間がすらすらものを書けてしまうのか。
別に不思議ではない。
そこで「すらすら書かれているもの」が「私の考え」ではないからである。
私たちが語っているとき、私たちの中で語っているのは他者の言語である。
と道破されたのはジャック・ラカン老師である。
さすが老師。
間然するところがない。
私は猜疑心が強いだけでなく、たいへんに飽きっぽい人間である。
その私がいちばん飽きているのは・・・
もちろん、おわかりですね。
私自身である。
私のことば、私の思考、私の好悪、私の感覚・・・
そういうものに私は飽き飽きしている。
だから、私が求めるのは「私がこれまでに使ったことのないことば」「私の脳裏にこれまで浮かんだことのない思念」「私がこれまで触れたことのないもの」といった一連の「ないものシリーズ」に集中することになる。
それじゃ、ウチダさんの書いていることは「他人から借りてきたもの」なんですか?
あなたは他人の判断を自分の判断と取り替えているんですか?
それって、主体性の放棄じゃないですか!
というような初々しいご質問もあるかもしれない。
違いますよ。
そんなことあるわけないじゃないですか。
考えてもみたまえ。
私は自分にさえ飽きてしまう人間である。
その私が出来合いのストックフレーズとか手垢のついたイデオロギーとか世間知とかどっかで読み囓った豆知識とかいうような「他人から借りてきたもの」に飽きないはずがないではないか。
私は自分の判断さえ信用しない人間である。
そんな人間がどうして他人の判断を信用しよう。
それくらいには私の性格の悪さを信用して頂きたい。
私が探し求めているのは、「私の考え」ではなく、また「誰かの考え」でもない。
「他者の思考」である。
ここでラカンが「他者」ということばを大文字で表記していることを思い出して頂きたい。
「他者」というのは、ただの「あかの他人」のことではない。
隣のヤマダさんは「他人」ではあるけれど、ラカン的な意味での「他者」ではない。
だって、私はヤマダさんの思考になんか何の欲望も感じないからである。
「他者の思考」とは、まだその思考が誰によっても私的に占有されたことのない思考のことである。
私たちの書くことへの欲望を無限に喚起するのは、そのような「他者の思考」だけである。
さくさくと書いているとリリリと電話が鳴って、朝日新聞から原稿の校正についてクレームが入る。
例によって「デスクが・・・」というあれである。
どうして新聞社のデスクというのは「書き直させろ」というよけいなひとことを言いたがるのであろう。
藤原正彦さんの『国家の品格』というベストセラーについての論評を求められたので、先週1時間ほど記者をあいてにおしゃべりをした。
それをまとめた原稿(デスク校閲済み)を送ってきた。
それをざくざくと校正して、原型をとどめぬまでに改稿して送り返したものについての書き直し要求である。
朝日新聞には「藤原を叩く」という基本方針がまずある。
朝日的には当然の判断である。
ベタなナショナリズム本なんだから。
「叩く」という基本方針があって、それから書き手を探し、私に目を付けたわけである。
私はその本を読んでいなかったので、頼まれてから買って読んだ。
その談話を記者がまとめた原稿は「藤原批判」が前面に出ていた。
朝日的にはそういう「わかりやすい対立構図」で提示したかったのであろう。
だが、私は原則的にメディアではそういう手荒な「ことばづかい」をしない。
もっと戦略的な書き方をする。
『国家の品格』を批判しているんだか批判していないんだか一読しただけではよくわからないように書く。
一読してよくわからないから放り出す読者は私とはご縁がなかった方がたである。
一読してよくわからなかったから二度読む、という方に私は用がある。
そういう人に向けて書いている。
『国家の品格』が問題のある本であるということをわかりやすく書くのは簡単である。
けれども、「どういう点が問題なのか」を、『国家の品格』を共感をもって読んでしまった読者にも分かってもらおうとすると話はずっと複雑になる。
メディアはどんな読者にもすらすら「わかりやすい」ように書かせようとする。
読解するときに読者に知的負荷ができるだけかからないような書き方を求めてくる。
それを「リーダー・フレンドリー」だと思っているのかも知れない。
だが、私はそれはむしろ読者を侮蔑していることだと思う。
「猫なで声」の「わかりやすい文体」からは書き手の「見下した視線」が無意識的ににじみ出す。
そのことにもう少し自覚的になったほうがいいと思う。
私が平気でわかりにくく書くのは読み手の知性に信頼を置いているからだ。
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