極楽からの生還

2006-03-11 samedi

極楽スキーより帰還。
これまで何度もご紹介しているとおり、1993年にK田M生先生から幹事役を譲られたときに、私はそれまでの「シーハイルの会」というシンプルでスポーツ・オリエンテッドな会名を改め、飽くなき快楽の追及を会是とする「極楽スキーの会」への大胆な組織改編に取り組んだ。
「向上心を棄てろ」
「技術は金で買え」
「シュナイダー・牛首滑走禁止」
など法三条を掲げて、党内闘争に圧倒的な勝利を収めてのち、以後十年余、極楽スキーの会は「温泉に浸かり、山海の珍味を喫し、そのあいまにスキーをする」という基本路線を貫いてきた。
1995年の大震災の直後でさえ、スキー板の埃を払い、ブーツの中に転がり込んだガラス片を掃き出して、極楽会員は野沢温泉に赴いたのである。
私は途中2シーズン(2003-3年)膝の痛みのために参加できなかったが、三宅先生のおかげでふたたびスキーができる身体になった。
その間、ワルモノ先生が三代目の幹事として、本会の運営を一身に担ってくださった。
そのワルモノ先生もそろそろ知命。
後継者をどう育てるのか、それが極楽スキーの会の唯一の問題である。
今回の参加者は会の重鎮であるY本先生、U野先生。極楽スキーフルエントリーのM杉先生、I田先生。それにキタローくんと会の健康管理とコーチ兼任のドクター佐藤の総勢8名。
この8名が初日昼の金沢近江町市場の寿司屋から始まって、四日目おやつの野沢の手打ち蕎麦と枡酒の間に、どれほどの量の食物を食べ散らしたのかについてはその詳細がワルモノ先生のHP日記に掲載されてあるので、そちらをご覧頂きたいと思う。
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/

参加者は全員極楽出発前には業界で「極楽進行」と呼ばれる前倒しの締め切り仕事を片づけることになっているのであるが、私は養老先生との対談のゲラの校正が前夜になっても手が付けられず、結局大阪から金沢までの車中でパソコンを打って、メールで入稿ということになった。
まことに便利なものであるが、はっとふりかえるとワルモノ先生もドクターもみんなノートパソコンを取りだしてかちゃかちゃとキーボードを叩いている。
極楽とはいいながら、このような文明の利器のおかげで温泉宿でまで仕事が追いかけてくるようになったのである。
二日目の朝、PCの蓋を開けてメールをチェックすると、仕事の依頼が3件も入っていたので、そのまま静かに蓋を閉じて、PCの存在を忘れることにする。
今回の極楽スキーはフルモデルチェンジということで、板は7シーズンほど履いたケスレーに代えて、フェルクル。靴はドロミテを購入。
板はドイツ製、靴はイタリア製、乗る人間は日本製。
ひとり日独伊三国軍事同盟状態となる。
最新モデルのカービングはこれまでより10センチ短い175センチ。
靴とのマッチングもよく、回転がたいへん楽ちんであった。
天気もよく、雪質もなかなかであったので、調子に乗って年齢を忘れて滑りすぎ、足腰ががたがたになってしまった。
それにしても野沢温泉スキー場の凋落ぶりは目に痛いものがある。
人出は最盛期の十分の一というけれど、スキー場での実感はそれ以上である。
なにしろゲレンデにいる人間の数が「ひいふうみい・・・」と指で数えられるのである(小津安二郎の『大学は出たけれど』で見た戦前の越後湯沢のゲレンデ風景に限りなく近い)。
スキーをしているのは中高年ばかり。
若い諸君はほとんどボード。
80年代にあれほどゲレンデを賑わした若者たち(いまは40代くらいか)はいったいどこへ消えてしまったのであろう。
野沢でもいくつかの採算不芳ゲレンデが閉鎖されて、運転中止になったリフトもある。
このままの減り方だと、いずれ現在使っているリフトが老朽化したときに、改築費用を銀行だって貸してくれないだろう。
もうビジネスとしてのスキー場経営には回復の望みがない。
遠からず日本からスキー場そのものが一つ一つ消えて行くのだろう。
私たちは日本最後のスキーヤーの一群になるのかもしれない。
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