7日は合気道の「鏡開き」。
集まったのは25人(くらい)。
恒例の「おぜんざい」を作り、御神酒で乾杯。
午後4時から始まった宴会では、Pちゃんのカルボナーラとチャーハンを食べた一同がそのあまりの美味さに「会社を辞めてコックになりなさい」という「ヤメロコール」を連発。
お肉をもって遊びに来た国分さんも「うちに来なよ」と誘うのだが、なかなか決断がつかないようである。
続いて、「男の騙し方」について私が経験的に説得力のある自説を展開。
適齢期の女性たち(ということほぼ全員ということである)が群がってきて、注意深く傾聴している。
このむさぼるような理解への渇望が合気道の稽古においても等しく発揮されることを祈念したいものである。
私の結論は、「男を騙すのはまことに簡単」ということである。
せっかくなので、宴会に参加されなかった一般読者のかたにも知見の一端をご紹介しておきたい。
男が「弱い」ポイントは「才能」のひとことである。
「あなたには才能があるわ。他の人には見えなくても、私にはわかるの」
と上目遣い斜め45度の視線プラス「かなぴょんのポーズ」でまず80%の男は落ちると断言してよろしいであろう。
「才能」のひとことであえなく陥落する男たちは「自分には才能があるはずなのだが、世間のひとが認めてくれない」という事実にフラストレーションを抱いているからこそ、このひとことで籠絡されるわけであるが、そのような「自己評価」と「外部評価」のずれがある場合、高い確率で外部評価の方が適切であるということが難点と言えば難点である。
「才能」の甘言をもって陥落しない20%の男というのは、「自分には才能がないはずなので、この女は嘘をついている」と考える人間か、「自分にはあまりに才能がありすぎるからこそ世人の評価になじまないのであって、こんな女ごときに私の才能がわかるはずがない」と考える人間のいずれかであるが、前者は猜疑心が強すぎ、後者はバカなのでいずれも配偶者とするには足りないので無視してよろしいのである。
ただし「才能」路線で攻めた場合、これはあくまで「自己評価と外部評価に落差があること」が条件となっており、実際にはある程度社会的経験を積んで、適度に「練れてきた」男の中には「自分のバカさ」についてかなり適切な自己評価を下しているものがおり、その場合は、はかばかしい反応を示さないことがある。
だが、このような「練れた」男こそ配偶者にはふさわしいわけであるから、さらなる二次攻撃が展開されねばならないのである。
「才能」で落ちない男も落ちるのは「ルックス」についての賞賛である。
すべての男は(驚くなかれ)、自分の容貌にある種の期待を抱いている。
「こういう顔が好き」という女性が世界のどこかにいるかもしれない・・・という儚い期待を胸にすることなしに男は一秒とて生きることのできない悲しい生き物なのである。
だから、「あなたには才能があると思うの・・・」で落ちなかった男も、「私、あなたのルックスが好きなの」にはあっというまに崩れ去る。
嘘だと思ったら、やってごらんなさい。
やれば、わかる。
なぜこれほど「ルックスへの言及」が効果的であるかというと、才能については外部評価が「学歴、IQ、年収、名声、威信」などという考量可能な指標で示されうるけれども、容貌には外部評価が存在しないからである。
「きれい」と思えば、「毛虫だってきれい」なのである。
容貌についての評価は「評価する者」と「評価される者」の対面的状況においてのみ意味をもつものであり、余人の容喙する余地はない。
断固として、ない。
私は若かりし頃、ある女性に「ウチダくんて性格最悪だけど、顔が好き」と言われたときにそのまま昏倒しそうになったことがある。
この女性はあるとき私のTシャツ姿をしみじみみながら「私、ウチダくんの三段腹が好き」と言ったこともある。
オトコゴコロのかんどころを抑えた端倪すべからざる女性であると言わねばならない。
「いい人だけど顔はイマイチ」と言われるのと「ワルモノだけどいい男」と言われるのと、男たちはどちらを選ぶか。
答えは明かである。
というわけで、配偶者をお求めの女性諸君には、標的とされた男性については、まず「隠れたる才能を評価し」ついで「ルックスを称える」という二段構えで攻略した場合、たいへんに高い確率で所期の成果を挙げうるということをご教示しておきたい。
言っておくが、「人間的な暖かさ」とか「器量の大きさ」とか「優しさ」などというものについては、いくらほめられても男は微動だにしないので言うだけ無駄である。
なぜなら、そのような資質が自分にはゆたかに備わっていることをすべての男性はゆるぎなき自信をもって信じているからである。
「顔は便所のスリッパみたいだし、知能指数はネコレベルだけど、優しくて暖かいひとなの」などと言われて喜ぶ男は世界に存在しない。
男が待望しているのは、「それが備わっているのかどうか、ちょっとだけ自信がない」美質についての「保証」のひとことだけなのである。
しかるに多くの女性は(ほとんどの、と申し上げてもよろしいかもしれない)、親しくなった男性に対しては、まず「その浅学非才を指弾し」、つづいて「チャレンジドな容貌を嘲弄する」という挙に出る。
これをして「インティマシーの表現」と誤解している方が多いので、ここに声を大にして申し上げるが、男にむかって「あんたはバカなんだから」とか「ブッサイクな顔して」とかいうようなことを(たとえそれが事実であるにせよ)告知することは当該男性との良好な人間関係の構築には百害あって一利なしということを改めてご指摘させていただきたいと思うのである。
あまりに話が白熱し、終電を逃した5名そのままうちに泊まる。
翌朝私が下川先生の稽古始めから戻ってきたら、ようやく起き出したその5人が朝ご飯を食べ終わった後だった。
泊まり組が帰ったあとにただちに甲南麻雀連盟「打ち初め」の準備にとりかかる。
忙しいなあ。
江さん、ドクター、カンキチくんがはかったように定時に登場して、3時J1第一試合がキックオフ。
釈老師はお正月はビジネス(といってよろしいのであろうか)のハイシーズンなので、今回は無念の欠席。
越後屋さん、平尾選手、青山さん、シャドー影浦くんと会員たちが続々登場して、はやくも3時半に花園で第二試合キックオフ。
『麻雀王』、『麻雀力』(これは平尾選手からのご寄贈の由)などというハードコアなタイトルを冠した書物で理論武装して臨んだ青山さんであるが、本日も「未勝利」のまま地団駄踏みつつ次なるお仕事へ移動された。
東京から帰ってきて途中参加されたI田Y子先生との「遺恨試合」は今後も引き続きJ2リーグにホットな話題を提供してくれることであろう。
そこに本山の “弱雀小僧” 野崎次郎選手が連盟戦に初登場。
次郎くんとは19歳のときから22歳にかけて、それこそ飽きるほど麻雀を打ったが、私はかつてこれほど弱い打ち手に会ったことがない。
「感動的なまでに弱い」あるいは「美しいほど弱い」ということも世の中にはあるということを若き日の私に教えてくれたのはジローくんである。
隣町にいながら、多忙のためにこれまで連盟戦への招待をパスしてきたジローくんであるが、今回満を持して「必敗」の意気も高らかに芦屋スタジアムに登場されたのである。
33年ぶりに打ち合ったジローくんは昔と少しも変わらぬ「あーん、どれすてていいか、わかんないよお」と身もだえしつつ、あり得ない当たり牌をねらい澄ましたように叩き込むのであった。
いい男である。
打ち初めの戦績は以下の通り。
「J2の帝王」シャドー影浦がダントツの109。これは次回はJ1で「おとなの麻雀」をこってり教えてやらないといけない。
二位は「遣り回し」やや不調の江さんがそれでも渋めの49
三位はJ1に定着した平尾選手の30。
四位はJ1戦初勝利を飾ったカンキチくんの29
五位は私の25(これは二抜けで「J2落ち」したときに、そのファーム独特の重苦しい毒気に当たられて大敗したのが祟ったのである)。
「負け組」については名誉のために詳細は記さないが、“弱雀小僧” 以上に弱い打ち手が一人いたことを新春の椿事としてここに書き留めておくのである。
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(2006-01-09 13:37)