最近、「コヒーレンス合気道」というものに凝っている。
『フィールド』を読んでから、池上先生がよくおしゃっていた「コヒーレンス」という概念が急にクリアーなものに思えてきたからである。
「コヒーレンス」coherence というのは「一貫性、整序」という意味であるが、ようするに「足並みが揃っている」状態を表す。
量子物理学におけるコヒーレンスの定義は「原子粒子内における共同歩調能力」である。
「こうした原子内の波や粒子は、たがいを認識するだけではなく、共通の電磁場にある複数の周波数帯によって高度に相互結合され、まとまって交信が可能になる。いっせいに共鳴しはじめる一群の音叉のようなものである。それぞれの波動の位相が揃い、同調するにつれ、ひとつの巨大な波やひとつの巨大な原子内粒子として活動しはじめる、」(77頁)
つまり、ある種のチャンネルを使うと、自分の近くにある生物体のコヒーレンスをいじることができるということである。
「術」とはこのことではないか、私はふとそう思ったのである。
多田先生は触れた瞬間に「相手を自分の色に染める」という比喩を気の感応の稽古のときによく使われる。
これは言い換えると「コヒーレンスを合わせる」ということではないか。
強いコヒーレンスをもった生物がコヒーレンスの弱い生物とコンタクトをとると、強いコヒーレンスに「足並みが揃ってしまう」ということがあるのではないか。
「技が終わったときの視点を先取りする目付」や「技が終わった状態をありありとイメージする時間意識のフライング」や「うまれてからずっとこの形という自己暗示」は、すべてコヒーレンスを強化するための「術」ではないのか。
そう仮説を立てると、これまで多田先生に教わってきたことの意味がいちいち腑に落ちる。
相手の細胞レベルのコヒーレンスを統御できるのなら、たしかにこの術は活殺自在である。
多田先生は早稲田の学生のとき、断食から戻られて本部道場で大先生の受けをとったときに大先生の体感が「すべてわかった」という話をよくされている。
これは大先生のコヒーレンスが身体感受性が強化された多田先生の中にいきなり刷り込まれたときの経験を語られていたのではないかと思う。
池上先生は、どんなものでも、それこそ針一本でも人間の身体のそばにあるとないでは、人間の身体のコヒーレンスは変る、ということをおしゃっている。
針一本でも人間の身体の秩序は変る。
鉛直方向に強いコヒーレンスをもったもの(縦長のペンダントなど)を身につけると、つけない場合とでは姿勢に有意な差が出る。
まして、こちらは生身の人間である。
ということで、この一ヶ月ほど「コヒーレンス合気道」というものをあれこれ実験しているのであるが、これがどうやら「当たり」らしく、学生諸君の動きが一変してしまった。
四方投げ、入り身投げのなめらかさなどに、驚くべき変化が見られた。
ほんとに。
これについてはいずれまた改めてご報告申し上げようかと思う。
多田塾関係のみなさんはぜひ『フィールド』を熟読玩味されるように。
ウチダはこれから極楽スキーです。
パソコンの持参は三宅先生から厳禁されているので、日記の更新はありません。
ではみなさん、10日にまたお会いしましょう。
ばいばい。
--------
(2005-03-06 09:43)