同期・時間・コミュニケーション

2005-02-13 dimanche

「宣伝会議」というところが主催している「編集・ライター養成講座」というところにお招き頂いて、ここで一席ぶつことになる。
この講座は業界的にはなかなか有名なものらしく、『ミーツ』の江編集長も講師をされているし、本願寺のフジモトくんも生徒をしているというワッタスモールワールド的講座である。
生徒さんたちは半分くらいが編集や物書き実務に携わっている若い方々で、メディアにおける「コミュニケーションの作法」のようなものを学習せんとして通われているらしい(よく知らないけど、たぶん)。
人間はどのようにものを書くのか、ということになると、これは30年来の私の専門研究領域のことがらであるから、話すことはいくらでもある。
因習的に考えられているように、私たちは過去から未来に向けてシーケンシャルにものを考えたり書いたりしているわけではない(時間はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、停まったり戻ったりしている)。
メッセージの送受信というのも、送信者から受信者へ向かっているわけではない(自分が送信するほとんどのメッセージは他者から自分あてにきたものを受信するというかたちで閲読される。Return to sender である)。
ものを創造するのはほとんどの場合「私」ではなく、「私の中にある無 − 知」である。
「私」を発信主体として構想されたすべての書き物はだからジャンクであり、そのようなライティングスタイルは必ず枯渇する。
「書き方」を外形的なノウハウとして学ぶというのは、その意味では悪いことではない。それはいわば自分のことばのかなりの部分を「私ならざるもの」(他人の声あるいは定型的話法)に託すことだからだ。
人間は経験的に「他人のふりをして語る」時の方が「自分の正味の本音だけを選択的に語る」場合よりも口がくるくるよく回るということを知っている。
それは言い換えれば、「他人のふりをして語る」ことの方が「語る」という行為の本質にはかなっている、ということを意味している。
「語る」と「騙る」は同音異義ではなく、たぶん同音同義なのである。
というところで安心してしまうのがシロートの浅知恵で、「他人の声を借りて、定型的な語法をもって語る」といくらでも語れるので、95%くらいの人は、それが「語る」ということだと思い込んでしまう。
そして、それが「他人の声を借りて、定型的な語法をもって語っている」という当の事実を忘れてしまう。
それが自分の「地声」だと信じ込んでしまうのである。
なにしろすらすら、いくらでもあふれるように出てくるんだから。どうしてそれが「自分の声でない」ということがありえようか。
だが、真に内省的な人間はここで「あまりに調子よくすらすら出てくる言葉」の起源が自分の「内部」にはないことに気づく。
それはどこか「よそ」にリンクしている「回路」から流れ込んでくるのである。
だって、こんなに調子よくしゃべれるはずないから、オレは。
そこで、ラッキョの皮を剥くような内省が始まる。
「『だって、こんなに調子よくしゃべれるはずがないから、オレは』というこの自己省察の言葉を語っているのは権利的には『誰』なんだ?」という問いが当然わいてくる。
と当然にも「で、この問いを発しているのは権利的には『誰』なんだ?」ということになり。もちろん、この問いも(以下同文)
誤解のないように付言するが、「ラッキョの皮剥き」というのは「どこまでいっても終わりがない」という意味ではない。『ちびくろサンボ』の「バター虎」と同じく、「どこまで行っても終わりがないプロセス」に身を投じたものは「どこか」で「虎がバターになる」ような種類の変容を経験するということをこれは意味している。
「語る」とか「書く」とかいうのは生成的なプロセスであるが、それはそのプロセスに身を置くと「私」が何かを無から生み出すからそう呼ばれるのではない。逆である。「何か」が「私」を作り出すから、そのプロセスは「生成的」と呼ばれるのである。
「私」を主語にして語ることにつねに「疚しさ」や「気恥ずかしさ」を覚えることのできる人間だけが、おそらくどこかで「私」に出会うことができるのである。
アナグラムの話、朝カルでマクラに使った「トマトソース」と「ちちんぷいぷい」の話、『パリの憂愁』のアナグラム解析などから始まって、最後はブランショとラカンの引用で締める。
考えてみるとたいへんにむずかしい話なのであるが、生徒のみなさんはにこにこしながら聴いていて、終わると「たいへんよくわかりました」と感想を告げてくれた。
あの話が「わかる」というのは、要するにみんなも内心では「こんなこと、誰にも信じてもらえんと思っていたんですけど・・・」という限定付きで、私と同じことを常日頃から感じていた、ということである。
「私だけの固有の、共有されえぬ思念や感覚」と思いなしていたものが、実は「みんなそうなんだよ」ということがわかるときに、人間はおのれの唯一無二性とおのれの普遍性を「同時」に経験する。
私たちがコミュニケーションのために膨大なリソースを投じるのは、畢竟、その経験を求めてのことなのである。
--------