めでたい初トラックバック

2005-02-03 jeudi

茂木健一郎さんがブログ日記で『先生はえらい』のコメントしてますよ、と本願寺のフジモトくんからご注進が入ったので、さっそく拝読してみる。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/
ごていねいなプレゼンテーションありがとうございます。
茂木さんの全文はそちらを徴して頂くとして、私も茂木さんのおっしゃる「フランス=底抜け思想」対「アングロサクソン=プラクティカルな経験主義」という対立図式は事態の本質をうまくとらえていると思う。私自身も同じような言い方をすることがあるし。
ちょうどそれと似たことを私も自分の日記でちょっと前に書いた。去年の10月の日記だけれど、院生のS田くんが相談に来たのでこんな話をした。

「さらさらと小テストの採点をしていると院生のS田くんが、修論の相談に来る。
学術論文のライティングスタイルとして規範化されている作法がどうも肌に合わないというご相談である。
学術論文のスタイルには『アングロサクソン型』と『大陸型』の二種類がある。
社会科学系の論文は(理科系の論文に準じて)アングロサクソン型で書かれるのが普通であるが、宗教や哲学や文学などについて論じる場合は、論文を書きつつある主体自身の思考や文体そのものの被投性を遡及的に問うという面倒な作業を伴うために『大陸型』(フーコーやデリダやレヴィナスやラカンのような書き方)で書かれるのが普通である、ということをご説明する。『大陸型』の書き手は『アングロサクソン型』の書き物をすらすら読めるが(だってわかりやすいんだもん)、『アングロサクソン型』の書き手は『大陸型』の書き物を理解しようとする努力を惜しむ傾向にある。S田さんは宗教的経験・霊的経験について論述する予定であるようだが、こういう論文では鍵語(『神』とか『霊』とか)を一義的に定義することができない。鍵語を定義しないままで、『鍵語を定義しえない人間知性の限界性』そのものを問い返す作業をアングロサクソン型の論述で進めるのはかなりむずかしい(できないことではないが)。
学術性を確保しながら、学術性の基礎づけそのものを問い返すためには、言語的なアクロバシーが要求される。まず『言葉を操る技術』がなければ、何も始まらない、というようなことをお話しする。
お役に立てたであろうか。」

私は陣営的にはもちろん「大陸型エクリチュールの擁護と顕彰」委員会のメンバーであるが、70年代以降に大陸型エクリチュールが社会科学、人文科学の領域にもたらした「前代未聞の災厄」については、私自身も内心忸怩たる思いがある。私だってそれでずいぶん迷惑な思いをしたのであるから、ソーカルの怒りには深く共感している。
しかし、かりそめにも私は「邪悪なまでに難解なエクリチュール」を駆使するレヴィナス老師の弟子である以上、大陸型エクリチュールを「産湯といっしょに赤子まで」放逐するようなことはちょっと我慢してね、お怒りはごもっともですが…となだめる側に立たねばならない。
私の『寝ながら学べる』というような「腰の低い」アプローチは実は「大陸型」の「底抜けエクリチュール」の尻拭いというか放蕩な兄たちがあちこちでこさえた借金を割賦で払って回っている末の弟、というような立ち位置からなされているものなのである。
「あ、兄貴たちはああ木で鼻をくくったみたいに横柄なものいいしますけど、そんな悪い人たちじゃないです。あれで、けっこう優しいとこあるし。ときどき病気の母にヨーカンなんか買ってきてくれたりすることだってあるんです」というような弱気な言い訳をしているわけである。
もちろん「悪い兄たち」の所業は「ヨーカン」でトレードオフできるようなものではないのだが、まそこはそれとして。
さて、茂木さんはこんな愉快なことばでその日記を締めている。

「この複雑怪奇な現代世界では、複眼的な思想が必要だ。
no nonsense で世界を平面的にしか見れない人に対しては、『君、少しフランス思想を服用したまえ』と言いたいし、フランス思想にかぶれてぐちゃぐちゃな人には、『君、もう少しプラクティカルになりたまえ』と言いたい。いっしょにドーバー海峡の真ん中あたりに沈みましょう。」

私が「言語的なアクロバシー」ということばで言おうとしていることと、茂木さんが「ドーバー海峡の真ん中あたりでの立ち泳ぎ(たぶん沈んだまんまじゃないと思うので)」という比喩で語ろうとしていることは、そんなに違わないような気が私にはする。
締めにこのようなドーバー海峡中央点的立ち位置における「泳法」の心得について、最近読んだいちばんかっこいいフレーズをご紹介しておこう。

「批判とは自他を区別することである。それは他者を媒介としてみずからをあらわすことであるが、自他の区別がはじめから明らかである場合、批判という行為は生まれない。批判とは、自他を包む全体のうちにあって、自己を区別することである。それは従って、他を媒介としながら、つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、みずからを批判し形成する行為に外ならない。思想はそのようにして形成される。」(白川静『孔子伝』)

うーん。ほれぼれするね。白川先生のこともこれから「師匠」と呼ばせていただくことにしようかしら。
あ、それからこういうのって、茂木さんのブログにトラックバックするんでしょ?ネット仁義としては。でも私トラックバックて、したことないから。秘書室の諸君あとはよろしく頼んだよ。これ、トラバしといてね。
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