酒と死に寝の日々

2004-12-26 dimanche

朝カル最後の日。朝から必死で仕込み。
フッサールの『デカルト的省察』と『イデーン』の時間論のところをばりばり読む。
なにもクリスマスイブに、カルチャーセンターでフッサール時間論批判なんかしなくてもよろしいのであるが、もののはずみでしかたがない。
私がこのところ考えているのは、「未来は他者である」というレヴィナスの命題はどういう理路をたどってフッサールの超越論的現象学に対する批判として成立しているのか、ということである。
私たちの時代に流布している批評的言説は本質的に無時間モデルであって、そこには「時間性がない」のではないかというのが、私のこの間の問題意識である。
時間性がない、というのは言い換えると、未だ到来せざる未来に対する「レスペクト」がないんじゃないか、ということである。
「私はこの先世界がどうなるかわかる」と揚言する人を私は信用しない。
それが脳天気な進歩史観であっても、ルサンチマンに充満した反進歩史観であっても、歴史の流れを貫通する「鉄の法則性」があり、私はそれを知っているので、未来がどうなるか予見できるのであるというようなことを言う人間を私は信用しない。
時間の本質は俚諺に言う「一瞬先は闇」ということである。
これまでつねに太陽が東から昇ってきたという事実は、明日も太陽は東から昇るという推論を基礎づけることができない(本日夜半に彗星が地球に激突して、地球がなくなってしまう、という可能性だってあるからだ)。
デビッド・ヒュームというへそまがりの哲学者がそう言った。
これまでの事例がどれほど法則的に継起しても、それは次に起こる出来事がその法則に一致するということは推論できない。
例えば、こんな数列がある。
2,4,6,8,10,12
この次は何でしょう。
たいていの人は「14」と答える。
残念でした。「27」です。
こんな数列だったんです。
2,4,6,8,10,12,27,2,4,6,8,10,12,27,2,4,6,8,10,12,27
では、次は何でしょう?
「2」
ほんと?
たしかに、「オッカムの剃刀」によれば、答えは「2」である。
この数列の規則性を説明する仮説のうち、「最もシンプルなもの」がベストである、というのが「オッカムの法則」だからである。
つまり、三回続いたシークエンスに基づいて下された「27」の次には「2」が来るという判断を支えているのは、ここに示された数列は「規則性をもった数列であるはずだ(あってほしいなあ)」という、あなたの「思い込み」と「欲望」に他ならず、それは「規則はもっともシンプルなモノがベストである」という因習以外にいかなる基礎づけも持たないのである。
実は、三回目の「27」の次にくるのは、「53」かもしれないし、「Ф」かもしれないし、「これでおしまい」かもしれないのである。
未来の未知性というのは、喩えて言えばそういうことである。
ずっとむかしから知られていることなのに、私たちはすぐにそれを忘れる。
というのは未来もまた既知の規則性(少なくとも蓋然性)によって支配されているというふうに思い込むと、「時間」という概念を捨象できるからだ。
それは言い換えれば、時間の変化を「ドミノ倒し」のようなものとして図像的に表象することに似ている。
たしかに次々とドミノは倒れ、めまぐるしく運動する「現在」はたえず「現在」を「過去」へと送り込み、「未来」を「現在」に繰り込んでいる。
時は一瞬も止まらない。
というふうに私たちは考える。
でも、この「時間」を「ドミノ倒し」の比喩で語る人は、「ドミノ倒し」の全景を俯瞰的にみおろしている空間的に静止した視点を自分が不当に先取りしていることを主題的には意識していない。
時間はこのとき空間的表象のうちに回収され、その本源的他者性を剥奪されているのである。
他者性や未知性や外部性という概念はほんらい「境界」とか「越境」とか「侵犯」とか「射程」とかいう空間的な比喩で語ることのできないものである。
けれども、私たちは時間をほんとうは図像的に表象することができない(「できるよ」という人が観念しているのは「時間性を剥奪された時間」にすぎない)。
では、どのような言語で時間について語ることができるのか。
私にもまだよくわからない。
とりあえず私たちにできることは、「私は時間について適法的に語ることができず、私が時間について語るすべてのことは、そのつどすでに空間的な表象に冒されている」という「病識」を保ち続けることである。

合気道部の納会が終わって、ゴミ袋7つ分の燃えるゴミと20本あまりのワインの空き瓶を片づけてばたりと倒れて死に寝。
よろよろと起きあがったら、朝日の朝刊でも「今年の3冊」をやっていて、高橋源一郎さんが『他者と死者』を、鷲田清一先生が『東京ファイティングキッズ』をあげてくれていた。
うれしいことである(高橋さん、鷲田先生、ありがとうございます)。
先週の毎日の養老孟司先生といい、みなさん「ウチダと会って、話がけっこうもりあがった」という点が共通している。
書物は書物として著者との親疎とは無関係に、純粋に内容的に評価されるべきではないかとおっしゃる方もおられるやもしれない。
ごもっともである。
でも、「本を読んだときは面白いと思ったけれど、書いた本人と会ったら、けっこうつまらん男だったので、『なあんだ』ということで本の評価も下がってしまった」というよりは、その逆の方がいいじゃないですか。
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