肥満という記号

2004-11-03 mercredi

大学院ではアメリカの肥満事情について報告を伺う。
報告によると、彼の地では、ジャンクフードによる肥満者が白人低所得階層やヒスパニック、黒人に偏り、スレンダーなナイスバディの人々がハイソに偏っているという、「体型の二極分化」が進行しつつあるらしい。
なるほど。ありそうな話である。
低所得層には伝統的な食文化もないし、栄養学的知識もないし、スポーツする環境もないし、治安が悪いので家に引きこもってTVばかり見ているので、カウチポテトでぶくぶく太る。一方、ハイソサエティのみなさんは…という話である。
分りやすい話だ。
アメリカではたしかに富はかなりの速度で偏在してきている。
それに合わせて情報も、教養も、趣味のよさも、審美的な身体も、少数のエリートに占有されつつあるというのは事実なのかもしれない。
しかし、2億8000万人からいるアメリカ人がそんなに簡単に二極に階層化されるものだろうか?
「おいらは、マクドなんか食わないよ。あれはジャンクだからね。裏庭で無農薬のニンジン作って食べてるんだ」というようなことを言う低所得階層の人がいても、別におかしくないはずである。その方が安上がりだし。
「あたしはTVなんか見ないの。バカんなっちゃうから。それより図書館で本読む方がいいわ。あたしが今読んでる本? マルクスの『経済学・哲学草稿』だけど、それが何か問題でも?」というような低所得階層の人がいても、別におかしくないはずである。TVの電気代もカウチ代もポテト代も節約できるし。
アメリカにおける問題は、この「そうなっても別におかしくないはず」の事態が、なかなか生起しないように社会が構造化されているという点である。
つまり、社会が「搾取されている下層」と「搾取している上層」に二極分解しているという「たいへんわかりやすい図式」がいったん提示されると、このチープでシンプルな話型に対する対抗的な「物語」もまた、それにましてチープでシンプルなものたらざるを得ないという呪縛がかの国民を軛しているような気が私にはするのである。
たとえば、アメリカではただいま大統領選挙が行われているが、報道によれば、選挙戦は「共和党」と「民主党」の二大政党によるアメリカ社会の「二極分化」というかたちで進行している。
だが、ブッシュが選ばれても、ケリーが選ばれても、アメリカ社会の世界戦略にはたいした変化はないだろうし、内政もそれほどは変わるまいとほとんどの人が予測している。
つまり、「ビール、アサヒにします、キリンにします?」というような選択で国論を二分しているのである。
どうして、「それ以外の選択肢」(「ウーロン茶」とか)を並べるという知恵が出ないのか、私はそれが不思議である。
「ラルフ・ネイダーがいるじゃないか」という反論もあるだろう。
だが、ラルフ・ネイダーの政治的主張の「チープ&シンプル」度だってブッシュ、ケリーとあまり変わらない。彼の世界にも「グッドガイ」(彼および少数の彼の支持者)と「バッドガイ」(それ以外のアメリカ人)しかいないんだから。
『文學界』にアメリカの知識人たちの大統領選についてのコメントが何人か載っていたので読んでみたが(けっこう便利な雑誌である。悪口を書いてすまなかった)、全員「ブッシュはダメで、ケリーの方がまだまし」ということを述べていた。
変な話だ。
知識人というのは「ふつうの人が言いそうもないこと」をあえて言うのが社会的な役回りだと思うのだが、アメリカではそうではなくて、「いかにもふつうの人が言いそうなことを、もっとスマートに、かつ合理的論拠を示しつつ言う」のが仕事らしい。
たしかに、目に入る情報がすべてこのように「二極分解」的にコントロールされていたら、「それ以外の可能性」について想像し、熟慮する習慣は組織的に失われてしまうであろう。
その上で、肥満について考えたら、どうして下層の人々が「ジャンクをやめてニンジンを囓る」とか「TVを止めて本を読む」とかのオルタナティヴを提示できないのか、その理由が分った。
下層階級や有色人種も、自分たちが差別されリソースの配分に与っていないということについてはたしかに「怒っている」のだ。
ただ、その怒りを社会に向けて発信しようと望むなら、彼らはその階級的な怒りを「誰にでもわかる仕方で表象する」ことを余儀なくされる。
しかし、その社会的表象において使用できる記号の種類はアメリカにはきわめて限定的な数しか存在しない。
というのも、人々は長年の「チープ&シンプル情報のオーヴァードーズ」の病症として、チープでシンプルな記号で送信されるメッセージ以外は受信できなくなってしまったからである。
裏庭で無農薬野菜を栽培しても、図書館でマルクスを読んでも、体育館で合気道を稽古しても、それらのふるまいは彼らの「階級的怒りの表明」としてはたぶん理解されない。
「社会的メッセージのコミュニケーションのために使える記号の種類がきわめて限定された社会」においては、その社会の記号的失調に遡及的に言及しうるようなことばそのものが社会的に「記号として認知されない」という「出口なし」事況が出来する。
「チープでシンプルな社会」に対する怒りが記号的に有意であるためには、その怒りの記号そのものを「チープでシンプルな仕方」で発信する以外にオルタナティヴがない。
それが「アメリカの悲劇」なのだと私は思う。
だから、下層の人々はマクドをむさぼり食って、TVの前でいぎたなくポテトを囓り、ビールを呑んで、200キロの体重を誇示する。
肥満することは、彼らが豊かな食文化から疎外され、栄養学的知見から疎外され、効果的にカロリーを消費するスポーツ施設へのアクセスから疎外され、カウチポテト以外の娯楽を享受する機会から疎外されているという「被差別の事実」を雄弁に伝えるきわめてわかりやすい社会的記号だからである。
「記号としての肥満」、「階級的異議申し立てとしての肥満」。
そういう概念を動員しなくては、ある種のアメリカ人のあの以上な肥満ぶりを説明することはむずかしいだろう。
「単純な社会」においては、そのような社会の単純な成り立ちそのものについての異議申し立てさえ、誰にでもわかる単純な仕方で提示されなければ、異議申し立てとして機能しない。
このような社会において、知性が生き延びるチャンスはあるのだろうか?

平川克美くんの『反戦略的ビジネスのすすめ』(洋泉社、1600円)が11日に発売される。
見本刷りが今朝届いた。
巻末に平川くんと私の「インターネット往復書簡」も収録されているので、「パーシャル共著」である。
改めて読んでみる。
いやー、面白いなあ。
これは分類上はビジネス書のコーナーに置かれるんだろうけれど、こういうタイプの「ビジネス書」は、これまで存在したことがないから、本を手に取った人はずいぶんびっくりするだろう。
ぜひみなさんも店頭でごらんください。
面白いよ。
オススメです。
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