日曜は東京で名越先生との対談を予定していたのであるが、これは私の勘違いで、私が「五月は毎週東京に行くので、つらいです」と泣き言を言って、ずいぶん前にキャンセルしていたそうである。
当日の朝、新潮社の足立さんから電話を頂いて「今日はありませんよ。ウチダ先生、自分で16日はダメって言ったくせに」と教えてもらった。
言外に「ぼけオヤジにも困ったもんだぜい」という編集者の嘆きが感じられたが、どうも物忘れがよくてすまぬ。
しかし、おかげでまるまる一日空いたので、大喜びで原稿書きに励む。
まずばりばりと医学書院『死と身体』の原稿を書き上げる。これにて朝日カルチャーセンターでの講演録のとりまとめは終了。
これで終わりかしらと思っていたら、白石さんから「あと『まえがき』書き下ろし50枚以上お願いしてます」と言われてしまった。
そういえば芦屋のC-Cubeでカフェラテをのみながら、「じゃ、あと50枚書けばいいんですね」と気楽に応じてしまったのを思い出した。
もうネタ尽きちゃったけど。どうしよう。
医学書院のとりあえずの仕事が終わったので、海鳥社の『他者と死者』を終わらせてしまうことにする。
もうだいぶ前に終章まで書き上げたのであるが、こういうのはすぐに送稿しないで、しばらく塩漬けにして寝かせておくのである。
読み返してみると、なかなか「いい味」になっている。
別に草稿そのものに変化があるわけではなく、勢い込んで書いたときの私と、読んでいる私のあいだに、ずれがあって、軽く「別人」になっているので、書いているときには気づかなかった「きかせどころ」の力みかたが「濃い味」になって浮かんでくるのである。
この「濃さ」をばっさり切ってしまうと「カフェ的・モダンジャズ的な薄味」になり、あえて残すと「居酒屋的・演歌的濃厚さ」になる。
ラカンとレヴィナスという、めちゃ「濃い」「重い」人たちの話なので、私の文章はできるだけ「薄く」「軽く」しておくことにして、さらさらとよけいな「力み」を削ってゆく。
でも、直していると、きりがないので、適当に切り上げて、あとは初校で削ることにして、とりあえず400枚海鳥社の別府さんにぽんと送る。
よっしゃ、これで一丁上がり。
これで五月にはいってから、NTTの『街場の現代思想』に続いて、脱稿すること二冊目(ほんとうはもう一つ国文社の『困難な自由』も書き上げたんだけれど・・・死んだ子の年を数えてもしかたがない)。
すごいペースだなあ。
6月中に『東京ファイティングキッズ』と『死と身体』、7月中に『現代思想のパフォーマンス』と『インターネット持仏堂』、8月中に『先生はえらい』、年度末までに『ユダヤ文化論入門』。名越先生との対談本、池上先生との対談本も年内には出るだろう。
岩波の『応用倫理学講座』と河出の『ラカン/ヒッチコック』はもうとっくに原稿を渡しているので、これが出ると年間12冊だ。
それらがすべて6月以降にまとめて出ることになるのだから『月刊ウチダ』どころではない。平均しても『Uchida Bimensuel』。月によっては『ウチダ旬報』、場合によっては『週刊ウチダ』になる可能性さえある。いや、まかりまちがうと一回くらいは『日刊ウチダ』現象に遭遇できるかも知れない。
すごいね。これはもう書きすぎを反省とか、そういうレベルの話ではないな。
もう、ある意味「感動」してます。本人も。
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(2004-05-17 14:18)