31日の朝日カルチャーセンターのネタを仕込む。
いつもは当日のお昼に必死で仕込むのであるが、今回は二日前から準備をしている。
ずいぶんいい加減な人間だとお思いになるかもしれないけれど、あまり周到に準備をしてしまうと、話す私自身がその話に飽きてしまうのである。
今回のお題は「死の儀礼」。
他者という概念は死者を埋葬する儀礼の発生と起源的には同一であるのではないか・・・という人類学的にまったく根拠のない妄説を思いついたので、それを展開してみる。
いま書いているレヴィナス論『他者と死者』はそういうアプローチからレヴィナスの「他者」概念を解釈しようという暴挙なのである。
他者とは死者のことである。
だって、そうでしょ。
レヴィナスの定義によるならば、他者とは私の理解も共感も絶しており、かつ「存在するとは別の仕方」で(だから存在しない)、にもかかわらず「私」に「影響を与え」(affecter)、私が倫理的に生きることを「命じる」のである。
レヴィナスは他者に「触れられる」ときの経験を affecter というかなり含意のある動詞で表現する。
翻訳するとわかるけれど、affecter というのは訳しにくい動詞である。
affeter は「つらい思いをさせる/影響を与える/害をなす/正負の符号をつける」というなんだかごちゃごちゃした意味がある。
レヴィナスはこういう言葉を選択するときに決して偶然に選ぶということをしない書き手である。当然、この「ごちゃごちゃ」な含意はすべてここに込められていると考えなければならない。
存在しないけれど、私たちに affecter する存在。それは「死者」である。
驚いてはいけない。
およそ文学の世界で歴史的名声を博したものの過半は「死者から受ける影響」を扱っているということを文学史はあまり語りたがらないが、これはほんとうのことである。
近いところでは村上春樹の作品はほぼすべてが「幽霊」話である。(村上春樹の場合は「幽霊が出る」場合と「人間が消える」場合と二種類あるけれど、これは機能的には同じことである)。
夏目漱石だってそうだ。
『猫』は猫の一人称小説だけど、最後まで読んだ方はご存じのとおり、猫は『猫』の執筆時点ではすでに「死んでいる」のだ。
あれはテクスト全体が「死者(というか「死猫」だな)からのメッセージ」というオカルト小説なのだが、そのことの意味に気づいている日本文学者は少ない。
『こゝろ』もそうだね。
あれも第三部は「死者からのメッセージ」だ。
死者からのメッセージを受け取ったせいで「わたし」の人生ががらっと変わってしまうという話なのである。
死者は死んでもう存在しないから、私たちに何の関係もない、などというお気楽なことを言う人間には文学も哲学もわかりはしない。
死者は存在しない。存在しないけれど、存在しないことによって私たちを affecter することを止めない。
存在 (Sein) は存在者 (Seiende) ではない。存在を存在者としてとらえることはできない。存在者としてとらえられた存在は無である。それゆえ人々は存在を忘却する。
これはご存じハイデガーだが、この「存在者」を「生者」、「存在」を「死者」と書き換えて読んでみるとどうなるか。
「死者は生者ではない。死者を生者としてとらえることはできない。生者としてとらえられた死者は無である。それゆえ人々は死者を忘却する」
あら、ちゃんと意味が通っている・・・
おひまな方は『存在と時間』を取り出して、その中の任意の一頁をひらいて「存在」を「死者」に書き換えて読んでみてください。これがね、驚くべきことに「全部」意味が通るのだよ。
嘘だと思う?
じゃ、やってみようか。ぱらり。
「われわれはつねにすでになんらかの存在了解内容のうちで動いているということは、さきに暗示されていた。その存在了解内容のうちから、存在の意味を表立ってたずねる問いと、存在の概念に達しようとする傾向が生ずる。『存在』とは何のことであるのかを、われわれは知ってはいないのである。しかし『「存在」とは何であるのか?』と、われわれが問うときにはすでに、われわれはこの『ある』についてなんらかの了解内容をもっているのだが、この『ある』が何を意味しているのかを、われわれが概念的に把握しているわけではあるまい。」
ではまいるぞ。
「われわれはつねにすでになんらかの死者了解内容のうちで動いているということは、さきに暗示されていた。その死者了解内容のうちから、死者の意味を表立ってたずねる問いと、死者の概念に達しようとする傾向が生ずる。『死者』とは何のことであるのかを、われわれは知ってはいないのである。しかし『「死者」とは何のことであるのか/「死者」はどのように死んでいるのか?』と、われわれが問うときにはすでに、われわれはこの『死ぬ』についてなんらかの了解内容をもっているのだが、この『死ぬ』が何を意味しているのかを、われわれが概念的に把握しているわけではあるまい。」
ハイデガーの存在論というのは「そういう話」なのだ。
「『或るもの』の現れとしての現れは、おのれ自身を示すということを意味するのではけっしてないのであって、むしろ、おのれを示さない或るものが、おのれを示す或るものをつうじて、おのれを告げるということを意味する。現れることはおのれを示さないことなのである。」
「或るもの」を「幽霊」と書き換えて読んでみてください。
別に私はオカルト話をしているのではない。
私が言っているのは、「存在論」や「他者論」のような名前のついた理説を持たない社会集団は無数に存在するが、「死者論」「幽霊論」を持たない社会集団は存在しないという、ただそれだけのことである。
もし哲学が普遍的な学であろうと望むのであれば、それは「すべての」人間社会に汎用的に妥当する知見を語っているはずである。
「存在についての問い」「存在者についての問い」は欠性的な仕方で「死についての問い」「死者についての問い」になるほかない。
だが、フッサールの現象学が実は「幽霊学」であること、ハイデガー存在論が実は「死者論」であることに気づいている人は少ない。
まして、レヴィナスが「フッサール幽霊学はたしかに幽霊がどうやって出てくるかについての分析はなされているが、『幽霊の位格』や『幽霊からの謎かけ』についての考究が足りない。また、ハイデガー死者論は死者の根源性については十分な論及がなされたけれど、それだけでは死者がなぜ生者に倫理的に生きることを命じるか、その基礎づけができない」という視点から先行する哲学者を批判したことを理解しているひとはさらに少ない(というか、いないよな)のである。
というようなことを『他者と死者』では書きたいのであるが、もちろんそんなことを書いて本にしたら学界から永久追放されてもうどこの大学の教壇にも立てなくなってしまうので、しかたがないから、ホームページ日記に書いたり、朝日カルチャーセンターで「怪しい話」を聞きに来た人たち相手にこそこそしゃべったりしているのである。
なにはともあれ、ハイデガーは絶対に「幽霊を見たことがある」と私は思う。
そうじゃなければ、あれほど「見てきたように」は書けませんて。
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(2004-03-30 09:41)