9月11日

2003-09-11 jeudi

WTCへのテロから二年。アメリカによるアフガニスタン、イラクでの「テロリスト殲滅」が続いているが、アメリカの世界戦略はあきらかに破綻の方向に向かっているように思われる。
ネオコンのイデオロギッシュで単純な世界観と、ジョージ・ブッシュの愚鈍を批判していればとりあえず無難、という風潮が見られるけれど、問題はそのような「イデオロギッシュで単純な世界観」を持った人々が政権中枢にのぼりつめ、それほどに愚鈍な人物が大統領に選出されてしまうという事実から推して「アメリカというシステム」そのものが危機的段階に達したことに存する。
個々の政策が不適切であるという段階と、不適切な政策が組織的に選択されるという段階では、表層的には「同じこと」のようにしか見えないが、システムの「制度疲労」の度合いはずいぶんちがう。
ある社会システムの「劣化」の指標は、統計的データなんか見なくても、そこで「幅を利かせている人物類型」を抽出できればだいたい分かる、というのは私の経験則である。
昨日、夜のニュースでは「爆弾発言」をした石原慎太郎と、「とほほ顔」の亀井静香が繰り返し映っていた。
この人たちはいまの日本で「幅を利かせている人物」のある種の典型である。
石原慎太郎的発言は、政治家としては言った人間は多いが、市民としては決して口にしてはならないことばである。
「私の政治的意見に同調しない人間から政治的権利を奪うことに同意するかしないか」それがテロリストと市民(civis)を分かつ決定的な違いである。
私は私と政治的意見を異にする人間(例えば石原慎太郎)の政治的権利を尊重する。
私は「石原慎太郎から公民権を剥奪すべきだ」とか「メディアでの発言を自粛させるべきだ」とか「石原慎太郎のようなポピュリストは家に爆弾をしかけられても当然だ」いうふうには考えない。
それらはいずれもあってはならないことだ。
私は誰かが石原慎太郎の家に爆弾を投げ込もうと計画していたら「やめろ」と言って制止するだろう。
しかし、石原慎太郎はもし田中均の家の前でテロリストと遭遇したら、「それは当然の市民的権利だ」と言うつもりらしい。
それはないでしょう。
どのような政治的行動も自由であるべきだ、と私も思う。
ただし一つだけ条件がある。
それは、「その行動が他人の政治的行動の自由を毀損しない限りにおいて」ということである。

市民の定義はすでに何度もここで繰り返しているが、オルテガ=イ=ガセーの述べた「自分の反対者をふくめて、集団を代表できること」「弱い敵と共存することのできること」「自分と意見を異にする人間の政治的権利を擁護すること」に尽くされる。
この市民の定義こそ民主主義のもたらした最良の精神的価値であると私は思う。
しかし、その市民的民主主義の根幹を否定する人物が幅を利かせ、そのような人物の「盟友」と名乗る人物が日本の総理大臣になりたがっている。
「日本というシステム」の「劣化」はアメリカの比ではないのかもしれない。

「嫌煙運動」というのを私はアメリカン・グローバリズムによる文化的世界制覇の一環であると見ているが、なかなか同意してくれる人がいない。
今日の朝日新聞の家庭欄は大きくトップに「喫煙者、死亡率1.45倍」という見出しをかかげていた。
中を読んでみると、80年から99年までの19年間、9768人についての追跡調査をまとめた結果、そういう数値が得られたというのである。
だが、どうも記事の書き方が変である。
記事を再録してみよう。

「結果によると99年までの19年間で2011人が死亡していた。そのうち男性は1091人で、喫煙者は672人、全く吸わない人は177人だった(残りは喫煙をやめた人)。年齢差を考慮したうえで喫煙者が死亡する確率(10万人あたりの死者数)を計算すると1663人となり、全く吸わない人(1151人)の1・45倍だった。1日に41本以上吸うヘビースモーカーは1・58倍、たばこをやめた人は1・19倍にとどまった。女性の死亡者は920人。喫煙者の死亡率は1179人で、吸わない人の1・24倍だった。」

なんだか「変な書き方」だと思わなかっただろうか?
私は思った。
統計的な数字を使う際に、サンプルの実数、10万人あたりの死者数、その比率といった三種類の数値をわずか数行のうちに使い分け、さらに性別によって六種類の数値を出したりひっこめたりする手際がなんとなく「くさい」のである。
記事によると、喫煙者と非喫煙者の10万人あたり死者数の比は男性で1663人/1151人である。
1151で1163を割るとたしかに1.444830・・・という数字になるから、「1・45倍」であるのは間違いない。
しかし、その前にある「死者1091人で、喫煙者は672人、全く吸わない人は177人」だけ見ると、喫煙者は非喫煙者の3.78倍死んでいる。
どうして、このより「センセーショナルな数値」を見出しに使わなかったのだろう?
もちろん、それはこの数値が「無意味」だからだ。
仮に「喫煙者の死者672人」の全員が交通事故死で「非喫煙者の死者177人」が全員病死だったら、そこからは「喫煙は健康に悪い」ではなく「喫煙者は運が悪い」というデータしか得られないからだ。
年齢、死因さまざまの条件において、それ以外のすべての条件を一致させたあとでないと、死者数のうちの喫煙者と非喫煙者を比べた有意なデータは得られない。
だとすると、「男性は1091人で、喫煙者は672人、全く吸わない人は177人だった(残りは喫煙をやめた人)」という一行は統計学や疫学の専門家以外の一般読者にとっては「男性は1091人で、仏教徒が672人、キリスト教徒が177人(残りはそれ以外の宗派のひと)」と書いた場合と、統計数字としての無意味さは同じだったということになる。
疫学的には、年齢差や死因を考慮して統計処理するのだから、実数なんか「シロート」に示しても意味がない。そんなことはこの記事を書いた記者にも分かっていたはずである。

「女性の死亡者は920人。喫煙者の死亡率は1179人で、吸わない人の1・24倍だった」というのも怪しい文章だ。
どうして、その直前の文で「たばこをやめた人は1・19倍にとどまった」という筆法をここでは踏襲しないのであろう。
問題にしている数値は見出しにある「1・45倍」なんだから、当然ここも「吸わない人の1・24倍にとどまった」と書くべきではないのか?
それとも「1・19倍と1・24倍のあいだ」には乗り越えがたい決定的な統計的深淵がひろがっているのだろうか?
理由は簡単である。
そう書くと、読者は女性喫煙者の死者数が「1・24倍にとどまった」理由について考え出すからだ。
朝日の家庭欄はそれについては「考えて欲しくない」のである。
それを考え出したら誰だって「体に悪いのは喫煙そのものではなく、喫煙をストレス発散の手段として選択させるような生活態度全体(過労、不眠、長時間労働、長距離通勤、不公正な勤務考課、生活不安、ローン、家庭崩壊・・・)」という結論に達するに決まっているからだ。
それが導き出すのは、「喫煙は体に悪い」ではなく、いまの世の中では「男性であることは体に悪い」という結論である。
そして、それこそは「女性であることの社会的不利」を指摘し、男女共同参画社会の実現を一貫して要求してきた朝日新聞の家庭欄にとって許容しがたい結論なのである。

もちろん、私は嫌煙運動なんかやめてしまえ、というような過激なことを申し上げているのではない。
タバコが体に悪いことを私は認めるし、喫煙者がそばにいると気分が悪いという方々の人権も尊重したいと思っている。
しかし私が知る限り、すべてのひとは何らかの仕方で「命を縮めている」。
「命の縮め方」にはそれぞれの個性があり、それは「不幸」や「病」と同じくひとつの「作品」である、と私は考えている。
北朝鮮やイラクの独裁体制はそれぞれの国の人々が熟慮の末に選びとった彼らなりの「不幸のかたち」である。
そうやって滅びてゆくことを国民たちが選んだ以上、粛々と滅びてゆくのに任せるというのが、心ある大人の態度ではなかったのか、と私は思う。
嫌煙運動とジョージ・ブッシュに私は同じ「アメリカのにおい」をかぎとる。
それは人間に「正しい生き方」をさせることのほうが、人間が「誤る自由」を尊重することより優先させる思考である。
私はそういう人とは友達になりたくない。