角川書店の『疲れすぎて・・・』の再校ゲラを締め切りぎりぎりで送稿。ただちに晶文社の『映画の構造分析』の初校ゲラにとりかかる。するとチャイムがピンポンとなって宅急便で角川書店からゲラが送られてくる。おお、私の送ったゲラは時空をワープして三校になったのかと仰天していたら、『ため倫』の文庫版の初校ゲラであった。
と、ここまで書いて、ふと、ここまでの四行に五回登場する「ゲラ」という語に「違和感」を覚えてしまった。
「あれ? 『ゲラ』なんていう言葉、この世にほんとうに存在するんだろうか? 私の妄想が作り出した造語ではないか?」という例の「あれ」である。
こういう語への違和感というのは、ただちに私が生きている現実世界そのものが組織だった妄想ではないのか、という深刻な懐疑へとつながってゆく。
私はあわててPCにインストールされているSuper日本語大辞典を開いて「ゲラ」を検索すると、驚いたことにこれは英語だったのである。
知らなかったでしょ? 皆さんも。
galley というのがほんとうの綴りなのである。
「ガレー船」のガレーである。(『ベン・ハー』でチャールトン・ヘストンが奴隷になって漕いでいたあれ)
これがどういう経緯で「ゲラ」になったかを手もとの「大修館 Active Genius」英和辞典で調べる。
(1)ガレー船:古代ギリシャ、ローマ時代や中世に地中海で軍船・商船として使われた大型帆船、奴隷や囚人に漕がせた。
(2)(艦船・飛行機の)調理室
(3)《印》ゲラ(組み版を入れる)galley proofs ゲラ(校正)刷り
1の語義から2への転移は想像しやすい。
艦船の調理室は船愛の奥底にあり、狭いところに人間がひしめき、熱気がこもり、刃物が飛び交い、骨だの肉だのがごろごろしているわけだから、そこが「ガレー」とあだ名されるのはまことにもっともな連想である。
しかし、そこから3へ飛ぶ道筋がよく分からない。
文撰工や組版というものは今ではもうなかなかお目にかかる機会がないが、高校の雑誌部で雑誌を出していた頃は存在した。それは狭いボックスに活字がぎっしりと隙間なく詰め込まれたユニットであった。その「詰め詰め」感がガレー船を連想させるのかも知れない。
そういえば、フランス語の cliche「クリシェ」(常套句)というのは、この活字の束のことである。なるほど、ゲラとクリシェは同じ一つの現象の二つの表現だったわけである。(クリシェの語源は「溶けた鉛を字母に流し込むときのオノマトペ」だそうである)
約十分間の辞書検索により、私は「ガリイ・プルーフス」というのが、「あれ」の本名だったことを発見し、「クリシェ」がオノマトペであることも Logos に教えてもらった。
私が妄想癖のある人間であり、しばしば深刻な現実乖離を経験するにもかかわらず、とりあえず凡庸なる一市民として日常生活を送っていられるのは、この「まめに辞書を引く」という習慣が深く与っている。
辞書を引くのが好きな作家というとすぐに名前が思い出されるのが村上春樹とホルヘ・ルイス・ボルヘスである。
ボルヘスは「贋の辞書」という恐怖譚のアイディアを終生手放さなかったが、それはボルヘスがどれほど「辞書を引いて、ある語の語義を確定する」という作業のもたらす「現実感回復効果」にすがって生きていたかをうかがわせる。(「贋の辞書」というのはボルヘスにとって、現実崩壊そのものの隠喩だったのである)
私はこれを「村上=ボルヘス効果」とこんにちただいま指称することにする。(もう誰かがとっくに特許申請しているかも知れないけど)
村上=ボルヘス効果についてご説明しよう。
辞書を引くことの効果は、「あらゆる語には起源がある」ということを教えてくれることである。
それは言い換えれば、人間の用いるあらゆる概念は、「あるとき、あるところで、誰かが言い出すまで、存在しなかった」ということである。
「ゲラ」という言葉のもとになった「ガリイ」が英語で3の語義を獲得することになるのは、グーテンベルク以降、すなわち15世紀よりあとのことであり、活版印刷がイギリスに輸入され、さらに「書き手自身による校正作業」がある種の「苦役」を連想させるようになって以降ということであるから、これは当然「職業的物書き」の出現以降ということになる。
文学史によるとイギリスにおける最初の本格的な物語はチョーサーの『カンタベリー物語』であるが、これは14世紀の話であるから、ジェフリー・チョーサー自身は「ゲラ」を校正した経験がないはずである。
最初の職業作家はサミュエル・リチャードソンあたりから始まる。おそらく18世紀中頃くらいに「げ、またゲラが届いたぜ」と言って赤ペンを手に「苦役」に励む物書きというものが登場したのであろう。
こういうふうに「ものごとの起源」があるということを確認すると、少なくとも私の場合は「現実乖離感」が寛解する。
というのは、現実の非現実感というのは、私の場合(たぶん多くの人も場合も似ていると思うが)、現実が「のっぺり」したものと見えることに由来するからである。
しかし、「辞書」は、あらゆる語も概念も、総じて現実を構成する「モノ」には起源があり、起源があるということはいずれ消え去るということも教えてくれる。
現実の非現実性、その「のっぺり感」は、経験的にはその「執拗さ」のうちに胚胎する。
現実のこの執拗さは、「あらゆるものには起源があり、だから終わりがある」という「辞書的」なものの介入によって緩和され、無害化する。
現実の空間を占める「モノ」たちのうち、あるものは昨日出現した新参者だし、あるものは十万年前から人類社会に居座っている。
そう考えると、現実は「のっぺりしたもの」であることを止めて、何となく「でこぼこしたもの」になる。その歴史的な厚みの差から「陰翳」が生じ、「ずれ」が生まれ、その「落差」や「背馳」からある種の「震動音」のようなものが聞こえてくる。
それは「深雪」と「新雪」のあいだに、亀裂が入って雪崩が起きるのにちょっと似ている。
現実を構成する「モノ」たちが「多起源的」であり、それぞれ異なる「余命」を刻印されている。それらは「たまたま」いま、この瞬間だけ奇跡的に出会って、私の眼前の現実を構成しているのである。
この「儚さ」を実感すると同時に、私の現実乖離感は拭ったように消え去る。
この「現実は、信じられているほどには『現実的』ではない」という確信を得ることによって、現実に親しみを感じ始めることを私は「辞書」の「村上=ボルヘス効果」と呼びたいと思う。
人間は「生まれ、死ぬ」ものにしか親しみを感じないということをこの作家たちは熟知していたのである。
(2003-03-25 00:00)