「花ゆう」にて非常勤講師懇談会。
ここ何年か、フランス語の非常勤の先生方のところに小林先生と田川先生にも加わってもらって合同開催していたのであるが、今年は山本浩二画伯、難波江さん、三杉さんも参加してもらったら人数がだいぶ増えてきた。
来年からは現代国際文化コースの非常勤講師だけで独自に懇親会を開かないと収まりそうもない。
二次会は難波江、三杉、野崎、田川、画伯でワインバー。三次会は画伯と女性二人と「並木屋」へ。(難波江+次郎は例によってカラオケ)
小林先生は、お疲れ気味のようで、珍しく一次会だけで帰ってしまわれた。
エルプリュスの夜会でその分しゃべりましょうね。
真夜中すぎに帰宅して、そのまま爆睡。
9時半に起きて朝食。新聞を読んでいるうちに睡魔に襲われ、例によって二度寝。
11時半、のろのろと起床。
本来であれば、ここで昼食・三度寝という黄金の必勝パターンが展開するはずなのであるが、12時に講談社の編集者の山崎さんと会談の予定なので、ぼうぼうあくびをしながら御影駅へ。
例によって高杉にて珈琲を喫しつつ商談。
講談社は3年前に川島さんにレヴィナス論の書き下ろしを約束したので、優先順位3位という若い「整理券番号」をゲットしている。
今回、講談社から二つ目の出版企画が来たので、先様で「談合」をして頂いて、選書メチエの方の仕事に一本化してもらった。整理券番号3が生きているから、これが書き下ろしの最優先となる。
お題は『徳について』という、なんだかセネカかマルクス・アウレリウスあたりが書きそうな本である。
もちろん私のような不道徳な人間がひとさまに「徳」について説教できるはずもない。
『デリバティヴ商品で一財産』とか『競馬必勝法』とかを私に書かせよう、というのにも似た無謀なる企画なのである。
果たしてどうなるのであろうか。
芦屋の「すみれ」で髪を刈ってもらいながら三たび爆睡。
家に戻るとまだ日が高いのに、もう四度目の眠気が襲ってきた。
これから「マーボー茄子」を作成する予定なのであるが、当然、「マーボー茄子」には冷えたビールというものが添付される。そのような危険な飲料を服用した場合、それ以後に何か生産的な仕事というものを実現する可能性は限りなくゼロに近づくであろう。
しかし、それにしてもどうしてこんなに眠いのであろうか。
おそらく今年度前半の疲れが夏休み前ということで一気に噴出してきているのであろう。五月、六月はほとんど休みがなかったし。
予定としては、いまから1週間ほど「一日五度寝」体制で推移し、そのあと「蘇る勤労者」と化して「夏休み・物書きマシーン化」状態に突入することになる。
例年のことであるが、「物書きマシーン」となると、みるみるうちに体重が減る。
書斎にこもってひたすら原稿を書き、本を読んでいるだけであるのに、ぐいぐいと体重が減るのである。
原因は二つあり、一つは、はげしく活動している脳がカロリーを大量消費するためであり、いま一つは、「あ、そうか!」とアイディアが一つ浮かぶたびに大量の排便がなされるせいである。
前者はともかくとして、なぜ学術上のアイディアが浮かぶたびにトイレに駆け込まなければならないのか、その因果関係がいまだに私には分からない。
頭が何かを「出す」と、身体も「負けじ」と何かを「出す」ということなのであろうか。
誰か科学的な説明をしていただけるとありがたい。
ともあれ、これは「勉強ダイエット」と言って、まったく費用もかからず、用具もいらず、わが家にいながらにして、どんどん痩せられるたいへんに効果的なダイエット法なのである。
ぜひ学生諸君も私にならって、この夏は「勉強ダイエット」でスレンダー・バディをゲットしていただきたいものである。
マーボー茄子を食したのち、生酔いでパソコンに向かい、文春から頼まれた『論点2003』の「ジェンダーフリー」の項目を執筆する。
この本は同一項目について「賛成派」と「反対派」のふたりが執筆する、というなかなか民主的な構成になっている。
「ジェンダーフリー」については、なんと私は「どちらかというとフェミニストの言い分も分かるわな」的な発言をご期待されている、という編集者からのご注文であった。
うーむ困ったな。
私は「ジェンダー」というのは「操作概念」であると考えている。
リビドーとか「もののあはれ」とかブラックホールとかと同じで、別にどこかに実体があるわけではなく、「そういうものが、ある」ということにしておくと、「話が便利」なのでみんなが使っている概念である。
集団的合意のうえで成立している「ただの概念」であるからして、これを「使わない」ようにするということはできるけれど、「打倒」したり「止揚」したりすることはできない。(モノじゃないんだからね)
ましてやそのような概念から「フリー」になるというのは「屋上屋を架す」というか、「概念からの派生概念」というか「夢の中で見ている夢」というか、なんだかずいぶん実体のないふるまいである。
そのようなものについて語れといわれてもねえ。
ウチダの意見は、性差別というのは、「性差」が過剰に言及される場でのみ起こることであるので、社会的な場では性差について言及するのはもうやめようよ、ということである。
男だろうが女だろうが、そんなことどうでもいいじゃない、という「なげやり」な態度をあらゆる場面で貫徹することこそ、性差別撤廃の王道である、とウチダは信じている。
だから、もうジェンダーについて話すのは止めない?
飽きたし。
というのが私からのご提案である。
ところがフェミニストのみなさんは「そのような提言はいったい、どのような性的存在者からなされているのか?」ということを問題にする。
「何? 男が言ってるの? 冗談じゃないわよ。そんなの。性差別という事実を隠蔽して、父権制社会を温存しようとするセクシストのたわごとにきまってんじゃない!」
というふうに私のご提言は一蹴されてしまうのである。
ある社会的発言を評価するに際して、その発言者が男性であるか女性であるかをたえず参照することで「ポリティカリー・コレクトネス」を査定するという発想そのものを私は「もうやめようぜ」とご提案しているのである。
それこそ性差別を再生産する装置そのものであると私は思う。
フーコーが『性の歴史』で書いたとおり、「ここに抑圧があるのよ! ここよ、みなさん。これこそが問題なのよ!」という終わりなき問題提起と、抑圧機制は「同じ一つの生地で出来ている」
ある性的立場なり、民族なり、人種なり、信仰なりに本人が固執していて、絶えず「私は・・・人として、申し上げるが」というようなことを言い立てている限り、そのような差異を有徴的なものとみなす社会構造はひたすら強化されるだけだからである。
性差別であれ、民族差別であれ、人種差別であれ、宗教差別であれ、出身地差別であれ、そのようなバカな差別をなくすもっとも効率的な方法は「そんなの、どーでもいいじゃん」という「なげやりな」構えを崩さないことである。
もしジェンダー構造というような幻想が実体的に機能しており、それを廃絶する必要があるとジェンダー・フリー論者がほんとうに望んでいるなら、その方たちがとるべき道は、あらゆる場面において、「ジェンダー? 何ですか、それは?」と驚いてみせることに尽きるであろう。
フェミニスト諸君にはぜひその方向でがんばっていただきたいと思う。
(2002-07-17 00:00)