7月14日

2002-07-14 dimanche

って、何の日だっけ? 7月4日がアメリカの独立記念日だから、14日はフランスの革命記念日かな。(仏文学者がそういうデタラメな記憶でよいのだろうか)
ま、私がしらんでも誰も困らないから。

目が腐るまで寝て、11時ころのそのそ起き出してお茶漬けを食べて朝刊を読んでいるうちに睡魔に襲われ、二度寝。2時ころ起き出して日清のチキンラーメンを食べて村上龍x中田英寿の『文体とパスの精度』を読んでいるうちに再度睡魔に襲われ、三度寝。5時ころ起き出して『術語集』のために「抑圧」「映画」「記号」の三項目、各3200字を書き飛ばす。
同じネタで何度もしゃべっているので、なんだか既視感にとらわれる。
違うことを書きたいのだが、そうそう新ネタは出てこない。
どれもみな「世界の本質的無根拠性」というオチになる。
大学に入ったばかりの学生さんに向かって「世界には根拠なんかねーんだよ、けっ」みたいな話しをいきなりかますというのも、情操教育上どうかと思うが、ほんとうなのだから仕方がない。

今日の唯一の新ネタは『史上最大の作戦』と『プライヴェート・ライアン』では、より「リアル」に思える『プライヴェート・ライアン』の方が「つくりもの」で、実際に上陸作戦に参加した兵士たちをスタッフ、キャストに揃えて作ったはずの『史上最大の作戦』の方が「嘘っぽい」という不思議な順逆の転倒の話。

ほんとうの戦闘の経験というのは、あるいはそれを生きた本人によっては言語化も映像化もできないほどアモルファスなものであって、記憶を掘り起こして回想するときには、「神の視点」からビーチに転がって音もなく死んでゆく兵士たちや戦闘機械となって銃を打ち続ける兵士たちを冷たく見下ろす、というような「模造記憶」が甦るのかもしれない・・・などと考える。
そういえば、私自身の身に起きた「強烈な出来事」を思い出してみても、不思議なことに、その映像にはつねに「私」が含まれている。
私が最後に他人に暴力をふるった場面を思い出してみると、ちゃんと「私」が若い男を殴り倒している「画」が出てくる。
「私の目」から見た出来事であれば、「私」自身がその場面に映り込んでいるはずはないのだが、「私」を含む風景を少し引いたカメラが捉えているような画を記憶は「私の経験」として呼び起こすのである。
いったい、この視線は「誰の」視線なのだろう?
私自身の経験を「私を含んだ風景」として図像的に回想するこの「誰か」がラカンのいう「大文字の他者」というものなのだろうか?
ということはスティーヴン・スピルバーグは「誰によっても回想されないはずの記憶」を映像化しようとしたということになる。
そうか・・・映画って、「そういうこと」ができる装置なんだ。
現実の記憶より、映像の記憶の方が「懐かしい」という倒錯はそこから生じるのかも知れない。