8月5日

2001-08-05 dimanche

毎日同じ日課。これで六日目。
毎朝8時に起きて、同じめにうの朝御飯を食べて、そのままパソコンに向かって、
ずっと原稿を書いている。家を出るのは一日一回 NOVA に行って一時間半フランス語をしゃべって帰ってくるだけ。(帰りに買い物して、ツタヤでヴィデオを借りる。)また机に向かって、夜の9時になったら切り上げて晩御飯を食べて、ワインかウイスキーを呑みながら映画を見て、12 時になったら寝る。

こういう生活こそ私にとって「最高に充実した夢の生活」なのであるが、なかなかそのあたりの消息がご理解頂けない。

「ええー、よくそれで退屈じゃないですね」

ぜんぜん退屈じゃないよ。
夏休みだからこそ実現できる「夢の単調生活」なんだよ、これが。

世の中には「変化」を求める人がいる。
毎日毎日祝祭的に愉しいことが手を変え品を変えて変化することを望む人がいる。
こういう人こそ変わり者だと私は思う。

私は「変化」が嫌いである。
いちど始めたことはやめない主義であるし、ご飯のめにうだって一度気に入ると毎日同じものを食べる。(このあたりは敬愛する内田百鬼園先生と同じ)自動車のコースだって変えないし、大学に来て行くスーツのローテーションも決まっている。
というのも、「生物の本質は変化である」から(@ドクター北之園)私たちがいくら「変化」をいやがっても、先方が勝手に私たちを訪れてくるからである。
私は「変化」の嫌いな少年だった。できるだけ「今日は昨日の続き、明日は今日の続き」であってほしいと切望していた。そこで、「私は私のペースでやりたいようにやらせていただきます」と宣言したら、あっというまにシステムから叩き出されて、目も眩むようなばたばたした少年期を過ごすことになってしまった。
結婚したあとはせめて身を落ち着けてと思ったのであるが、結婚が「身を固める」というのは大嘘で、私の「身」はこなごなに「砕けて」しまった。
大学に定職を得てようやく「夢の単調生活」を期待していたのであるが、次々と難題続出で次々と新しいことをしないと生きのびていけない。
私は 16 歳からいままで 30 年間に 16 回引っ越している。(そのたびに生活形態が変わり、毎回同居人の顔ぶれも変わった。)だから、16 歳からあと私の身に起きた「変化」の数々を思うと、思い出すだけで目が回りそうである。ほうっておいても、そういうことになってしまうのである。だからこそ、私はできるだけ自分にコントロールできる範囲では、変化をしないように心がけているのである。
しかし、すべてが同じ状態にとどまっているようにコントロールするのはたいへんな仕事である。(エントロピーの増大を阻止するわけなんだから)
毎日同じご飯のおかずをキープするのは、出たとこ勝負で好きなものを好きな時間に食べるより、消費エネルギーが多い。
というわけで、ふだんの生活では、外的変化に屈服して、「もう好きにしてくれ」というなげやりな状態になって変化を受け容れている私も、夏休みは持てるエネルギーのすべてを投じて、「昨日と全く変わらない今日」を孜孜として貫徹しているのである。