5月1日

2001-05-01 mardi

朝日の夕刊に並んで二つインターネット関連記事が出ていた。
小田嶋隆によると「朝日のインターネット関連記事は読むに耐えない」ということであるが、それは昔の話。最近はそうでもないだろう。と思って読み出したが・・・

一つは「多元主義の文化を求めて」というシリーズ記事の第一回。
私は「朝日の多元主義」はなんだか信用できないので、関連記事はとりあえず眉に唾をつけて読んでいる。
それほどまでに信用できないなら講読を止めればよいのに、と思う方もおられるでしょうが、それは甘い。私は生まれたときからずっと「朝日」なので、その記事が「どれくらい信用できないか」を一読しただけで正確に算出できる。だから適正な「減算率」を乗すれば、いかなる「ハンパ記事」からも有用な情報が得られるのである。他の新聞ではこうはゆかない。
その「多元主義」関連記事は「欧州知識人に聞く」とあって、最初のインタビュイーは「ポール・ヴィリリオ」。
私は朝日の「多元主義」関連記事を「あまり」信用していない。加えて当今の「知識人」というのを「あまり」信用していない。「ポール・ヴィリリオ」については、読んだことがないからなにものか知らないけれど、例の「ソーカル本」では「バカ代表」に挙げられていた。これだけ不利な条件が揃うと、いささか不安である。
案の定、そこでは「インターネットの浸透は英語圏文化の世界支配」「サイバーネットの中での新たな植民地化の進行」といった脳天気な言葉がだらだらと繰り出されていた。
しかし、次のような文章を誰がまじめに読めるだろうか?

「思考がなくなった世界では、条件が課されると反応だけが起きる。電気は役に立っても原子力発電そのものが危険なようにインターネットは危ない。」

インターネット=思考の均質化=『1984』的悪夢というような観念連合こそ「思考がない人間の条件反射的反応」のごく通俗的なかたちだと私には思える。
「思考がなくなった世界」というのがどういうものか私には分からないが、「思考がなくなった世界で、私だけは思考している」というのは権利づけの非常に難しい哲学的難問である。そのようなラディカルな問いをみずからにつきつけている人間はあまり「通俗的なこと」は言わないはずだが・・・
「電気は役に立つが原子力発電が危険」というのも私にはよく分からない。
危険なのは原子力発電「そのもの」ではなく、原子力発電を運用する人間に十分な知性が欠如している、という人間の側の問題である。手持ちの知力で統制できるテクノロジーとそれでは統御できないテクノロジーを識別できない人間の頭の悪さが問題であって、「原子力発電そのもの」が危険なわけではない。
それにインターネットは原爆のように一度に何十万人を殺し、数百年にわたって生命を絶やすほどに地球を汚すわけではない。もしインターネットによってもたらされる思考の均質化が原爆と同程度に破壊的だという意味なのだとしても、どの点が「同程度に」破壊的なのかは教えてくれなくては困る。
思考の均質化が世界に害毒を流すことについては私はヴィリリオ氏と一点を除いてまったく同意見である。違うのは、私はヴィリリオ氏の思考こそ「均質化された思考」の一種の典型であって、とても有害なものだと思っているが、氏はたぶんそう思っていない、ということだけである。
この「欧州知識人」はさらにつぎのようなことを言う。

「超高速でものは運ばれ、サイバー世界の高速移動も地球を縮小し、取るに足らない存在と思わせ、ひとは閉じられた世界で生きるようになってしまう。海も水ならコップのなかも水だ。問題は自然な大きさで、それを忘れると閉所恐怖症に陥ってしまう。あらゆるものが加速され、短縮されて世界はあまりに小さくなり、わたしたちは窒息する囚人となってしまう。」

私には意味がよくわからない。きっと私の頭が悪いせいだとおもう。どうか誰か解説してほしい。どうしてインターネットのせいで「わたしたちは窒息する囚人になってしまう」のか。
もし、このロジックを受け容れるなら、およそ情報の速報性を可能にするすべての通信テクノロジーは世界を縮小し、ものごとの「自然な大きさ」を損なうことになる。
ならば、ヴィリリオは当然マルコーニにまで遡って通信テクノロジーを全否定するべきだろう。
おそらくヴィリリオ氏の家には電話もテレビもラジオもないのだろう。
そのようにして形成された自閉的な世界について「何がそれを打破するのでしょう」というインタビュアーの質問に彼はこう答えている。

「希望はバーチャルな世界だ。リアルが縮小した時に代替の場所となる。サイバー世界の拡張が、地理的世界の縮小を補うだろう。日本のオタクがそうでしょう。彼らは別の世界の空間に代替を求めている。バーチャルな世界はいまはまだ広告業者の宣伝程度にしか過ぎず、電子的なドラッグによる加速が幻覚を生み出すという意味で巨大なハリウッドとなってしまっている。」

「広告業者」?「電子的なドラッグ」?「巨大なハリウッド」?
いったいいつの時代のどこの国の話をしてるんだろう。
私にはよく分からない。
ヴィリリオは最後をこうしめくくる。

「やがて観念、思考、精神の世界となり、肉体を伴った世界とそれぞれが高音と低音を分け持つハイファイ的状態が出現する。わたしたちはそこで生きることになるのです。」

「ハイファイ」ですか・・・「真空管」と言わなかっただけましかもしれない。
この人の思考はその語彙とともに 40 年くらいまえのどこかで停止しているのかもしれない。よく分からないし、あまり分かりたくもない。
まあフランスは世界に冠たる「インターネット後進国」だから、(97 年に行ったときに「インターネットとは何か?」という特集を『レクスプレス』がやってたから)これくらいの「とんちんかん」な問答があっても不思議はないのかもしれない。
どちらにしても、インターネットの功罪についてフランス知識人に意見を聞くのは、バナナ・プランテーションの経営法についてアイスランド知識人に意見を聞くようなものだと私は思う。
朝日新聞のやることはときどきすごくディープだ。

もうひとつの記事は「大学制度を揺さぶるネット」と題した東京女子大の黒崎政男教授のエッセイ。
こちらはヴィリリオとちがってたいへんまともな論考であった。
インターネットを利用する学生と利用できない大学教師のあいだで「メディア・リテラシー」格差が生じてきて、教師の知的優位性が脅かされている、という論旨である。

「従来、学者や教師など専門家の権威を形作ってきたのは〈情報の独占〉と〈情報のタイムラグ〉であったと言える。情報をより早く所有し、それを自分たちだけで囲い込むことで専門家の権威は発生してきた。(...) 大学制度を成立させてきたのは、結局のところこのような〈情報の落差〉だったのである。」

まったくご指摘のとおりである。

「インターネット情報はそれとは正反対の〈開放性〉と〈同時性〉という特質を持っている。(...) ちょっとした努力で、必要な情報や資料は、関心ある者すべてにいわば平等に開かれている。」

だとすれば、明治以来の大学の知的威信を制度的に支え切ることはもう不可能だということである。
いまや大学人が知的威信として示しうるものは「情報をみきわめる判断力や、断片的知識の寄せ集めから統一的な意味を見出す洞察力」のほかにはない。
黒崎さんは「まっとうではあるが、歯切れの悪いこのような言説しか、今日の大学人には残されていないのかもしれない」としめくくっている。
私はこの論旨には全面的に賛成である。
ただこの言い分はすこしも「歯切れが悪い」ものだとは思わない。
喩えて言えば、いままでの大学人は食材と料理器具を全部「囲い込んで」おいて、料理学校を開いていた料理人のようなものである。
それが食材も料理器具もマーケットで簡単に手にはいるようになったというだけのことである。
同じ素材と同じ道具を使って生徒より料理が下手だったら、そんな料理人はたちまち失職して当然である。
そのような大学人が淘汰されることに私は何の異論もない。どんどん進行してほしいし、お手伝いできるなら、どんどんお手伝いさせていただくにやぶさかでない。
黒崎さんが「歯切れが悪」く感じるのは、そう言うと「角が立つ」から言わずにいるせいだろう。

木曜午後から金土と微熱の中で寝たり起きたりして過ごす。
日曜月曜は一年に一度の「京都旅行」の日程が入っている。まだ熱が残っていたが、とにかくでかける。途中の舞鶴道で熱が出てきて歯茎も痛みだしたが、もう構わずどんどん行く。
年に一度の京都旅行の先は美山町の小林家である。
小林節子夫人は私の別れた妻の田園調布双葉時代の旧友である。
私は前にも書いたが「離婚ごとき私事で」それまでの長いつきあいを「チャラ」にするほど人間関係を希薄なものと考えていないので、一度ご友誼を賜った方とはよほどのことがないかぎりずっと「おともだち」である。
結婚しているときに家族で京都に招かれて行って、たいそう楽しい数日間を過ごしたので、るんちゃんと二人で芦屋に移ってきてからも、近くなったのを幸いと毎年連休を利用して美山町を訪れる。
美味しい山菜を頂きつつ。節子夫人とは「子育て」の苦労についてかこちあい、ご主人の小林直人氏とは美酒を酌みつつ清談し、二人のお嬢様たちのご機嫌を伺うのである。
直人氏はその世界では高名な「知性派林業家」(別名「哲学する山林王」)であり、世界各国、各業種の人々がその草庵を訪れて、その知見を拝聴したり、単にお酒を飲みに来たりする。
昨日は元京大人文研所長の谷泰先生と奥様のアンナさんとご一緒になる。
牧畜文化研究の谷先生とはここで会うのは二度目。今回はアンナ夫人の「いちごのタルト」を頂きつつ、日本の入管制度への鋭い批判に一同聴き入る。
興味深かったのは、日本のキャリア女性外務官は外国人女性に対して「意地悪」だという経験的ご意見。
なんとなく、分かるような気がする。どうしてか、はうまく言えないけれど。