12月13日

2000-12-13 mercredi

鳴門のロック少年・増田聡先生をお迎えしての学術講演会「ポピュラー音楽の学術的分析―テクスト批判からネットワーク分析へ」は盛会のうちに終わり、かねてお約束の一膳やでの「鴨鍋」に一同は雪崩れ込み、鯨飲馬食、談論風発のバトルの一夕が展開されたのであった。
遠く阿波徳島からお越しになって刺激的な講演をしてくださった増田さん、熱心に質疑に参加してくれたオーディエンスのみなさん、懇親会を盛り上げてくれたみなさん(とりわけフェミニズムをめぐる論争で増田さんの「痛快九州男児」論を引き出してくれた飯田先生)そしてあらゆる面で今回のイベントをささえてくれたユニット・パートナーの難波江和英先生、どうもありがとうございました。お礼申し上げます。

女子大の先生を十年もやっていると、「若い男の子」と出会う経験が構造的に欠落している。
うちの学生たちにとって私のような「おじさん」はとりあえず別世界の住人であって、成績の査定者という意味では「権力」的な存在ではあるが、まあ率直に言えば「別にどーでもえー」人である。
しかし、若い男の子にとっての「おじさん」はそれほど気楽な存在ではない。
「おじさん」が権力的であれば、その権力性が、「おじさん」が反権力的であれば、その反権力的ロマン主義が、「おじさん」が非権力的であれば、その「逃げ足」の遣い方が、それぞれつねに「規範的」に意識されるのである。
ここで「規範的に意識される」というのは、いろいろな意識のされ方がある。

いちばん単純なのは「そのどれかを選んでロールモデルにする」という仕方での規範化である。(これは要するに「権力化する」のプロセスである。)
一回ひねりは「そのどれにも従ってはならない。自分のオリジナルな規範を形成しなければならない」という規範化である。(これは「ロマン派的反権力化」のプロセスである。)
一回半ひねりは「そのような規範を意識すること自体がよろしくない。おいら、そんなもん知らないよ」という「見て見ぬ振り」的な規範化である。(これは「非権力化」のプロセスである。)

お分かりのように、どのようにふるまっても、後続世代は先行する規範のいずれかに回収されてしまうのである。
私たちの世代はとても単純でおめでたかったので、「反権力的にふるまう」ことがいずれ規範的で抑圧的に機能するというようなことを考えもしなかった。
大きくなって、そのことに気付き、「こりゃまずい」というので、「さかしらな権力装置にずるずるすりよって、インサイダーとなって権力を『バカ化』する」「非権力的」スタンスを私は採用した。とりあえず、「これでいこう」ということで安心して今日に至っているのである。
しかし、お若い方たちは、「はいそうですか」というわけにはゆかない。
非権力的なスタンスそのものが規範的に意識されれば、それはすぐに抑圧の装置として機能する。
「私はじゅうぶんに非権力的だろうか」という査定を通じて。
というわけで、オプションが出尽くした観のある時代で、若い人はどんなふうにスタイルを選び取って行くのであろうか、ということに私はちょっと興味があったのである。
増田さんと話していて私が驚いたのは、このような(私から見ると)きわめてストレスフルな条件が彼にとってはうまれついての「与件」であるので、ぜんぜん圧力を感じない、というお言葉であった。
「近代の子」ですから、と増田さんは軽やかに笑った。
そうか、大気圧が高い星に生まれてその大気圧に慣れた人は、地球人が「よくこんなプレッシャーに耐えられますね」と問いかけたら、かえってびっくりするだろう。
それと同じである。
近代的な意味での「オプションの限定」が与件であるような時代のこどもたちは、たぶん私たちが思いもよらない方法で「自由」と「快楽」を享受しているのである。
私が上に挙げたような「若い世代にはオプションがないんだよね」という状況説明を増田さんは不思議そうに聞いていた。
ブリコラージュというレヴィ=ストロースの言葉を何度か増田さんは使っていたけれど、これは「ありあわせのものを組み合わせて、道具を創り出す」技術のことである。
たぶん、「おじさん」たちの世代が作り上げたり壊したり無視したりしてきたさまざまの知的リソースの全体が彼の目には「再利用の可能性にあふれたガジェットのゴミの山」のように映っているのであろう。
「マルクス主義右翼かつ九州男児」という増田さんの自己規定はすべて「ありあわせ」の「反時代的な」「使い古されて意味が摩滅した」言葉から構成されているのだが、そのような見捨てられたリソースからも、組み合わせしだいでいくらでも「新しい道具」を創り出すことができる、ということを増田さんは確信しているようであった。
それは「ロックはつねに新しい。なぜなら、全く同じ曲を全く同じ仕方で演奏しても、それを聴く文脈が変化すれば、それはまったく違う音楽経験だからである」という増田さんの力強い断定に通じるものであるように私には思われた。

本日の教訓。(ありふれているけど)後生恐るべし。(でも頼もしい)