12月10日

2000-12-10 dimanche

土曜日は「身体技法」三本立て。
まず午前中竹内敏晴さんの講演(これを大学の公開講座でやっていた。人間科学部の池見先生がお呼びになったのである。一度お話を聞いてみたかった方なので、ありがたい企画でありました。)
お話は大変面白かった。
竹内さんの『ことばが劈かれるとき』という本を読んだのは10年くらい前のこと。
ことばがからだに「とどく」と、からだが「劈(ひら)く」、というワーディングにつよい衝撃を受けた。
竹内さんもまた「自分の言葉で」思索する人である。
お話のなかでは「体育座り」という膝を抱えて座る姿勢が子どもたちの間で「いちばん自然な姿勢」になりつつあるという指摘に胸を衝かれた。
つい先週の合気道のワークショップで二人の学生(一年生)が「体育座り」をして技の説明を聞いていた。ほかの学生たちは正座している。
こんなの見たのははじめたなので、私はびっくりした。
顔を見ると、二人とも熱心に私の説明を聞いている。それで「体育座り」が「けっ、正座なんかして聞いてられっか」という反抗的なポーズではなく、彼女たちなりの「恭順」のポーズだということが分かった。
誰がこんなことを教えたのだろう。
竹内さんによると、「体育座り」が日本の学校教育に導入されたのは1960年代のこと。約10年間で全国に広まったという。
その狙いは「手遊びをさせない」「隣のひととおしゃべりをさせない」「身動きをさせない」という児童生徒たちの身体の管理にあった、というのが竹内さんの解釈である。
自分の両手で膝を抱え込んで、背中を丸めているのである。この状態では胸で浅く呼吸することしかできない。もちろん声も出ない。
自分の身体で自分を縛り上げ、自分の手足を自分の「牢獄」に変えるためのポーズが「体育座り」なのである。
日本の学校教育はいったい子どもたちに何をしてきたのだろう。
「管理」は必ず身体を標的にする。
フーコーが言うとおりだ。
しかし、何という陰湿な管理の仕方だろう。
合気道を指導していて最近感じることの一つは、学生たちの「背中の意識」と「足裏の意識」の希薄さである。
武道の技の冴えを出すためには背中と足裏が決定的に重要である。
「表」の部分(相手にも自分にも見える身体部位)を「甘く」遣い、「裏」の部分(見えない部位)を「厳しく」遣うのは術技の基本原則である。
その背中と足裏のコントロールがうまくできない人が多い。(そういう私だってできないけれど)
足裏意識の希薄化については文化人類学者の近藤四郎さんの研究がある。(『ひ弱になる日本人の足』)
背中については知らないけれど、「体育座り」において、背中が彼女たちを閉じ込める「牢獄の壁」であり、同時に外の世界を遮断する「殻」として機能していることは間違いない。そのような身体部位に熱い血が通い、なめらかな筋肉が育つはずはない。
「体育座り」に象徴される、「隠微な身体管理」から彼女たちの身体を解き放ち、「からだを劈く」ために武道的な身体運用には何ができるのだろうか。

考えつつ合気道のお稽古へ。
身体を「融通無碍」に、自在に用いるということが何よりも大事なのだという単純な真理を思い知らされ、そのような稽古プログラムを工夫して、ふだんと違う動きを入れたわざをさせてみる。
すぐに出来る人もいるし、一度「刷り込んだ」身体図式に繰り返し戻ってしまうひともいる。
新しいわざがすぐにできる人はたぶん自分の身体図式から「離脱する」方法を少しずつ習得しはじめている。できない人は自分の身体図式に「とらえられている」度合いが強い。
合気道を稽古する目的の一つのは、厳密に言えば、武道的身体図式を「身につける」ことではない。
「型にはめる」ことを通じて、「型から逃れる」ことである。
「武道的身体運用」という「意識的に構成した型」に入り込むことで、「日常的身体図式」という「無意識的に私たちをとらえている型」から身を解き放つことである。
外国語をいくつも遣い分けることのできるひとは「日本語から英語へ」「英語からフランス語へ」とかんたんにシフトできる。そして使用言語がかわると、発声法が変わり、ジェスチャーが変わり、表情が変わり、さらには世界観や人間観まで変わる。
言語が変わるということは、世界分節の形式も変わるということだからである。
武道において「型を学ぶ」というのは、その意味では外国語を学ぶことによく似ている。
武道的な型を遣えるということは、いわば「日常的身体運用」と「武道的身体運用」の「バイリンガル」になる、ということである。
そのときに私たちは「私の身体」だと思いこんでいたものが一つの文化的装置にほかならないことに気がつく。私たちは「別の身体」で生きることもできるのである。

最後はキーロフ・バレエ。
鈴木晶先生の『バレエの魔力』を読んで遅咲きのバレエ・ファンとなったウチダは、今年を「バレエ元年」と定めた。
さっそく、元ゼミ生の現役バレリーナ、フルタ君に「私は今年からバレエを本格的にみることにした。ただちに『白鳥の湖』か『ジゼル』か『眠れる森の美女』か『コッペリア』か『くるみ割り人形』のいずれかの公演予定をチェックして」とご依頼。
なにごとも「先達」の弟子がいると便利である。
フルタ君が「12月にキーロフが来て『白鳥』をやりますが、これはオススメすよ」とご注進して下さったので、さっそくチケットをゲット。(S席15000円)
フルタ君、ウッキーとともに大阪フェスティバル・ホールへ。
キーロフについて鈴木先生は何て書いてたかなあ、まあいいや家に帰ってから調べてみよう、と思っていたら、隣のウッキーが「先生、プログラムに鈴木先生が書いてますよ」と教えてくれた。おお、さすが鈴木先生、先回りして私が大阪フェスティバルホールに来ることまでお見通しであったか。こういうのを「私のために書かれたテクスト」(@メル友交換日記)というのであろうか。
オデット姫はウリヤーナ・ロパートキナ。
バレエ通のフルタ君もご存じない方であったが、これがプログラムに「いまが絶頂期」と書いてあるのは嘘偽りなく、まあ、ものすごい踊り手であった。
すべて一流であるはずの他の舞踊手たちの「影が薄く」なるほどすごい。
バレエを見るのは始めてというウッキーと私(ベジャールとかピナ・バウシュとかモダンはけっこう見ているけれどクラシックははじめて)は、ただ口をあんぐり開けてその「人間とは思えない」身体運用に見惚れてしまった。
第二幕の「32回フェッテ」も、超絶技巧というより「もう30回くらい行きましょうか?」という余裕が感じられた。
しかし、なにより感動したのは、その四肢のまったく力みのないのびやかさである。
とくに背中の柔らかさ。
オデット姫は白鳥なので、翼がある。ほんとに二本の腕が白鳥の翼に見えるのである。肩胛骨が「がばっ」と開いて、腕が非人間的な角度に湾曲するのである。
ひごろ「肩胛骨をがばっと開いて」技を遣うように言い募っているだけに、(それが「斬り」の基本なのである)ウリヤーナ・ロパートキナの上体の柔らかさには感動。
この人に合気道をやらせたらどんなことになるのであろうか。
そして身体運用の「非中枢性」。
これについては私はまだバレエを見始めたところだし、実際にレッスンの場でどういう言葉で身体運用を説明しているのか知らないので、たしかなことは言えないが、私の目にはバレエこそ「非中枢的身体運用」の一つの極限であるように見えた。
「いやー眼福、眼福」とフルタ君のお薦めの適切さをたたえつつ一同満足感に酔いしれて帰路につく。