12月8日

2000-12-08 vendredi

というわけで、このホームページも開設してから苦節1年8ヶ月、ついにヴィジュアル・コンテンツを有するに至ったのであります。
感無量。
これもすべて「終身芸術監督」フジイ "こびとさん" レイコ君の献身的努力のおかげである。ありがとね。こんどはもうちょっと豪華なものをおごって上げるからね。
しかし、私がここに来て急にデジカメ小僧になったのは訳がある。
朝日の竹信君からの督促があったのも一因であるのだが、もう一つは最近オープンしたばかりの「石川先生のホームページ」がいきなり「くいだおれ人形に化ける石川先生」というおおわざを繰り出してヴィジュアル・デビューを果たしたからである。
仮にも1年有半のアドヴァンスがあり、5万になんなんとするアクセス数を誇るウチダのサイトが、後発の石川先生のホームページにヴィジュアル面で後れをとるということはにわかには受け容れがたい事態なのである。
4月に買ったまま放置されていたデジカメのマニュアルを私が泣く泣く手に取るに至ったには、そのようなルサンチマンによってつよく動機づけられていたのである。
強弱勝敗を論ずべからずと「武道論」で偉そうに書いてはいるが、ウチダの内面はかくのごとく意馬心猿状態なのである。(わんわん)

卒論シーズンなので、ゼミ生たちが次々とセカンドドラフトをもってやってくる。
もうほとんどできている人もいるし、半分くらいしか書けてない人もいる。
だいじょうぶかー。1月15日だぞー。
私はとりあえず「締め切り」のタイトな原稿はぜんぶ終わってしまったので、気楽な年末である。
しかし、「締め切り」が死語化した原稿は二つ残っている。
せりか書房の「レヴィナス論」と国文社の『困難な自由』の全面改訳である。これが終わらないと、講談社の「レヴィナス論」に手を着けるわけにはゆかない。
せりかのほうは半分ちょっとまでは仕上がっているのであるが、「レヴィナスとフェミニズム」の途中まで書いたところで夏休みが終わってしまい、そのままハードディスクのなかで「冬眠」状態にはいってしまった。これを3月までに書き上げて、なんとか船橋さんに手渡したいものである。
レヴィナス老師は確信犯的なアンチ・フェミニストであり、(さすが私が師匠に選んだだけのことはある)いまレヴィナスの「アンチ・フェミニズムの思想的射程」について肯定的なことを書くのは、日本の知的風土においては自殺行為にひとしい。
だが、この劣勢をなんとか挽回して、「フィクティシャスなジェンダー構造の延命にあえて与する」ことの哲学的意義について書かないといけないのである。
現在の思想状況において、反動的ではない仕方でアンチ・フェミニズムを語るのはやさしいことではない。
しかし、(レヴィナスを罵倒する)イリガライを読んでいると、その言説の抑圧のきつさに私はちょっとうんざりする。「・・・でなければならない」という禁止と当為の語法にぎちぎちに固めてでないと私たちは性について語ることができないのであろうか。
私は性というのは深いところまで「虚構」によって浸食された制度であると考えている。
レヴィナス老師は「自然な感情」というものに依拠しない性的関係を考想していた。
なぜ老師はイリガライ的なべたべたした「私とあなたの完全な癒合」ではなく、「嘘で固めた」性的関係を理想として提示したのであろうか。
私はそれについて答えを出したいと思っているのである。むずかしいけどね。