11月25日

2000-11-25 samedi

昨日の教授会で2011年までの減員計画が承認された。
教員は17%の減員である。それと同時に受け入れ学生数も減らすから、教育サービスの質はむしろ向上する。(教員一人あたりの学生数は30と変わらないが、学生一人当たりの空間や図書冊数やPC台数は増えるからだ。)
需要が縮小すればそれにあわせて供給も減少するのは当たり前のことだ。
このキャンパスはもともと1000人程度の学生を想定して作られたこぢんまりしたものである。1000人とは言わないけれど、1500人くらいにまで減らしてよいのではないかと私は思う。(いまは2600人いる。)
そういう小さくてインティメイトな感じの大学というのが女子大としてはいいのではないか。(『あしながおじさん』のジュディが通っていたカレッジみたいの、私は好きだぞ。)
日本はこれから「右肩下がり」の時代に入って行くと私は思っている。
経済が失速し、政治的プレザンスが消滅し、文化的発信力はさらに希薄になるだろう。
しかし、べつにそれを嘆く必要はない。
これまでだって世界に覇を唱えた帝国はつねに滅びてきたのである。
近世以降もポルトガルやスペインは世界を二分していたし、オランダやイギリスも世界の海を支配したことがある。
いまはそうじゃないけれど、だからといってそれらの国の人々がいますごく不幸か、というとそんなことはない。
人間と同じで、国もまた未熟なときもあれば、壮健なときもあり、老衰してゆくときもある。
老人には老人の生き方、老人ならではの生活の楽しみ方がある。
日本はいま「老人国」になろうとしている。
それはべつに高齢化社会とかそういう意味ではない。
国そのものが「お疲れさん」状態に達している、ということである。
明治が起業期で、昭和のはじめに世間知らずのまま夜郎自大的に事業を拡張、中年で倒産して路頭に迷い、一念発起でニッチビジネスで再起を果たし。いつのまにやら大金持ち。それを無意味に蕩尽し果てて、すかんぴんの晩年、というのが近代日本の「人生」である。
すかんぴんにはすかんぴんの生き方がある。
それについては日本文化にはちゃんとロールモデルがあるではないか。
長明、西行、芭蕉、荷風、百間、小実昌、康(って町田ね)。
彼らのすかんぴん美学に導かれて、「小さくてもほっこりした国」めざして粛々と滅びて行くというのはいいことだと私は思う。
時代全体はいまその方向に向かっている。
宮沢喜一がこのあいだの予算委員会で、危機的な財政構造を指摘されて、「税収がふえれば、すべてうまくいきます」と答弁していた。
理論的にはまったく正しく、しかしそれがまるで空語であることを質問した仙石議員も答えた宮沢蔵相も熟知しているような「しらけた」顔であった。
税収はもうふえないだろう。民需は拡大しないだろう。財政危機はますます破綻に向かって突き進むだろう。
そのことを全員が知っていて、とりあえず「困った困った」と言っているが、それは真夏に「暑い暑い」といってもぜんぜん涼しくならないのと同じで、ほんとうは「困った」なんて言ってもどうしようもないから、「困った」というのもうやめない? ねえ? と内心はみんな思っているのである。
だから、私が代わりに言ってあげるのである。
「困った」と言うのをやめましょう。
それが「当然なんだ」だと思いましょう。
夏が暑いのと同じで。
日本は確実に滅びて行く。滅びて行くって言ったって別に死ぬわけではない。
元気のない国、つねに運動の渦中にあるような動的なエネルギーの出ない国になる、というだけの話である。税金で国債の借金を払って役人に給料払ったら一円も残らないという「完全リサイクル予算国家」になるというだけの話である。
そういうところで「ほっこり」暮らしてゆくというのはべつに少しも恥じることでも、悪いことでもないと私は思う。
私たちの知的努力の向かうべき方向は、いかにしてこの国の崩れかけた屋台骨を支えるかではなく、傾いた屋根の下で、雨漏りやすきま風に文句をつけながらも快適に暮らせるような「生活の知恵」の涵養である。
だから、来年あたり志ん生の落語が中高生のあいだで「ひそかなブーム」となっても私は少しも怪しまない。