8月29日

2000-08-29 mardi

久しぶりに三宮に出てお買い物。改装して大きくなったセンター街のジュンク堂で、道元の『正法眼蔵』と町田康の『くっすん大黒』と村上春樹の『そうだ村上さんに聞いてみよう』を買う。(変な取り合わせ)
10年前に町田町蔵の『壊色』を小川さんからご恵与たまわったのであるが、私は石井聡互の『爆裂都市』で戸井十月さんの弟役で出てきた町蔵君の印象が強すぎて、「なんだかわけのわからないことを言う人」(って、そういう役なんだから仕方ないんだけど)だろうと思い込んでいて、敬して遠ざけていたのである。
私と同じく「読まず嫌い」だった小田嶋隆が町田康を一読してホームページで絶賛していたので、早速購入。
おお、これは面白い。
なんて、「健康」なんだろう。なんて「明晰」なんだろう。
大阪弁のグルーヴ感は『水虫魂』や『エロ事師たち』のころの野坂昭如にたしかによく似ている。でも野坂の終わりなき文章がある種の「粘着性」をもっていたのに対し、町田の文章には気持ちのよい「アーティキュレーション」がある。読んでいて、風通しがいい。
町田の小説の登場人物たちはすごく「健全」である。
なにが「健全」かっていうのは難しいけれど、だまし取ったお金をきちんと二人で等分するところとか、「うどんゆで」には阿吽の呼吸が大事だとか、フライドチキンに並ぶときは「フォーク並び」がいいよとか、死者の家に行ったらまずお焼香とか、「ものごとの優先順位」についての感覚が非常に健全なのである。
現代文学を読んでいてうんざりするのは、「こんなやつが本当にそばにいたらたまらんだろうな」というような人間ばかり出てくる(それもたいてい「私」で)ことだ。
町田の小説の登場人物たちは、「こんな人が本当にいたら、ともだちになりたい」というような感じがする。
逆に「こんな人がいたら、たまらん」というようなタイプの人間の描写がほんとうにリアル。その「厭さ」にもすごく共感してしまう。
「厭な奴」についての感覚が近い、というのはすごく気分がいい。
グルーヴ感といい、視線のアーシーさといい、現代文学ではすごくレアな経験だ。
私はまえに「とほほの系譜」というものについて書いたことがある。
社会システムの不調(不公平とか、ノンモラルとか)を「誰かのせい」にしないで、自分自身がろくでもない人間であることもまたそのシステムの不調の一因である、という「従犯感覚」をもつ知性のありかたを「とほほの心」と呼んだのである。
その系譜を私は成島柳北、夏目漱石から、内田百間、深沢七郎、田中小実昌、赤瀬川原平、小田嶋隆、とたどったのだが、町田康もこの輝かしい系譜にぜひ書き加えたいと思う。早速他の本も買わないとね。