日曜が「母の日」だったのだが、母親のことをころっと忘れていたら、その母親から「督促」の電話がかかってきた。(さすが私の母である。)
母の日の贈り物とかしなくてごめんね、でも今週末学会で東京いくときうちに泊まるからさ。「伊勢の赤福」でがまんしてねと適当ないいわけをして逃れる。
きっと兄ちゃんが息子を代表して母親にカーネーションとか贈ってくれているだろう。
すると私のところに札幌の田口さんから「母の日おめでとう」メールがきた。
私もこれまでさまざまなものに擬せられてきたが、「よそのうちの子」から「お母さん」と呼んでいただいたのはこれが始めてである。
田口さんはいったいまたどうして私を「お母さん」だと思ってしまったのであろう。
私の生来の「おばさん」性が社会的演技としての「父性」とまじりあって「母性」になってしまったのだろうか。(それでは単に「おとこのおばさん」というものにしかならないような気がするが)
男の本質は母性であると太宰治が書いている。
どういう意味なのかよく分からない。
「赦し」を原理とする対人関係ということなのだろうか。
たしかに私は「赦す」ことにかけては人後に落ちない。
わびを入れ、前言を撤回し、まとめて水に流し、「それはこっちへおいといて」、堅いこと言わずに手締めでちゃんちゃん、というのが私のもっとも得意とするスタイルである。
これをして、竹を割ったような(中身のない)人物だと評するひともいる。情が薄いというひともいる。単に世間をなめているだけだというひともいる。「お母さんみたいに無原則だ」というひとがいてもおかしくない。
ともかく、「父でありまた母である」ような大人になりたい、というのは私の年来の悲願であったのだが、めでたく田口さんのおかげでその可能性がかいま見えてきた。
そういうアンドロギュノス的な気分で寝転がって『アイズ・ワイド・シャット』と『セレブリティ』を見る。
こら、あきまへんわ。詳しくは明日の『おとぼけ映画批評』を見よ。
(2000-05-17 00:00)