4月12日

2000-04-12 mercredi

いよいよ授業が始まった。
大学院は例の「日本文化論」論である。
泥縄でここしばらくそれに関連するいくつか本を読んだ。
青木保の『「日本文化論」の変容』が、日本文化論の歴史的な推移を概観する上でたいへん参考になった。
『菊と刀』を超える日本文化論がない、という評価には私も同感。
坂口安吾の『堕落論』が日本文化論のもっともラディカルなかたちである、という評価も私と同意見。(青木さんとはいろいろ意見が合って嬉しい。)

苦しみに耐えつつ西尾幹二の『国民の歴史』の後半も読んだ。
困った本である。
いくらデータを並べてみても、最初に設定しているフレームワーク(19世紀的な国家有機体説)そのものが歴史的な生成物であり、そのような「歴史的に構成された視座」から歴史を見ている限り、「そのフレームワークから見えるデータ」しか見えない、ということに西尾はあまりに無自覚すぎる。
私だって西尾同様、彼とは別の「歴史的に構成された視座」から歴史を見ていることに変わりはない。しかし、自分には「限定的な視野から見えるデータ」しか見えていない、ということを私は知っている。
私も西尾もどちらも「イデオロギッシュ」であることに変わりはない。
違うのは、西尾は自分のことを「中立的、学問的だ」と思っているということであり、私は自分を「イデオロギッシュだ」と思っているということである。
自己評価の客観性において私は西尾に勝っている。
だからどうだっていうんだ、と西尾は反論するかも知れない。
別にどうもしない。
ただ、「自己評価の客観性が高い」という評価を得た方が、ひとを説得する(「騙す」でもいいけど)ときには有利だということである。

エルンスト・ノルテとユルゲン・ハーバーマスの歴史家論争も読んで同じことを思った。
ノルテは自分を客観的な歴史家だと思っている。
ハーバーマスは自分をイデオローグだと思っている。
ハーバーマスの方が自分の視野にバイアスをかけている政治性に敏感な分だけ、自分の書いていることが政治的文脈で「何を意味するか」をよく分かっている。
そういう人の方が「大人」だと私は思う。
そして、いっしょに集団的に何かするのなら、「大人」と組みたいと私は思う。

夏目漱石の文明論も読んだ。
つくづく凄い人だと思った。
これほどラディカルなことを語りながら、まるで横町のご隠居の「当たり前の説教」みたいに読者に思わせる話術の巧みさにおいて、漱石は日本近代史の誰よりも政治的な論客である。
『坊ちゃん』が痛烈な近代西欧批判論であることに気づいている読者はあまりいないだろう。
『二百十日』や『虞美人草』ではやや不消化なイデオロギー的本音が出てしまう漱石だけれどど、そういうのはみんなあまり読まないので、漱石の政治性はなかなか露出しないのである。

こういう大人の「わざ」を使えるひとがいなくなってしまった。
司馬遼太郎も『龍馬がゆく』だけで止めておいて、『坂の上の雲』なんか書かなければ、けっこういい線まで行ったかもしれないけど。

いまいちばん政治的な作家は村上春樹だと私は思うけれど、そういうふうに『ねじまき鳥クロニクル』を読む人はやっぱりあまりいないだろう。

ものを隠すときはいちばん目立つところに隠すのが決まりである。
ポウもラカンもそう言ってる。
政治というのは「最強の物語」なのだから、対抗するには「物語」をもってするしかない。
簡単な「話」だ。

遠方の友人からメールが来た。面白いので紹介しますね。

「貴兄のホームページを読んでいたら、高橋克典という名前が出てきたけど、この人ってトレンディードラマによくでてるひとでしょう。
だとすれば、直ぐ近所で金物屋をしながら、(冨士屋というのです)タバコ屋をしている高橋克爾という人の息子だ。昭和3年生まれ、72 歳。たばこはここで買うのです。
忙しくて帰って来ませんよ、ここしばらく、と言っていました。俳優なんていうヤクザになってしまったと嘆いていました。
世の中狭いですね。」

ふーん、ほんとに、狭いですねえ。