14 Dec

1999-12-14 mardi

ずるずるげほげほ。
また風邪ひいちゃった。前回のだいたい同じ症状。(ATOK によれば「同じ猩々」。私の風雅な生活がかいま見えるですね)
一昨日は多田塾研修会、昨日は風邪で一日仰臥。ベッドでごろごろしながら京極夏彦を読む。「わはははは、ぼくは神だ」の榎木津礼二郎薔薇十字探偵の活躍に大笑い。探偵ものは数々あるが、これほど愉快な探偵は本邦初ではないか。推理しないで、犯人が分かってしまう、という設定がすごい。ホームズもポワロもデュパンもこれには勝てまい。
さらにごろごろとデレク・スミシー『コリン・マッケンジー物語』(柳下毅一郎訳、現代書館)を読む。
いやー。松下君の話の落ちがついてよかった。
おそらく膨大な数の「笑いネタ」が仕込んであるのだろうが、私が気がついたのはごくわずかである。
ひとつはコリン・マッケンジーの最初のトーキー映画(全編中国語の『戦士の季節』)の主人公名。
ウォン・フェイ・フォン。
香港バカ映画好きの私にこれは分かる。ウォン・フェイ・フォン(黄飛鴻)はリー・リンチェイの『ワンス・アポンナ・タイム・イン・チャイナ』の主人公、清朝末のカンフーの達人の名前である。
コリンが一緒にバカ映画をつくる「世界で一番不愉快なコメディアン」スタン・ウィルソン、別名「スタン・ザ・マン」はK1でおなじみのキックボクサー。(これはハイ・カルチャー系の知識人の盲点だな)
著者「デレク・スミシー」のお父さんが映画監督「アラン・スミシー」だというのは「訳者あとがき」の柳下毅一郎の「種明かし」サービス。
「アラン・スミシー」はハリウッド業界の隠語で、途中で監督がいやけがさして降板したり、編集段階でプロデューサーと大喧嘩したりして、監督がクレジットに名前を出すのを拒否した場合に使う偽名。この間TVで放映していたなんかのバカ映画の監督のところに麗々しく「アラン・スミシー」と新聞のテレビ欄に出ていた。それだけで札付きのバカ映画だということが分かる。誰かおおまじめに「アラン・スミシー特集」というのをやれば面白いのにね。
みんな『コリン・マッケンジー物語』を読んで、「あ、これはバカネタ!」というのを探して下さい。柳下毅一郎との勝負だから、なまはんかな映画知識では歯が立たないぞ。


12日は合気道本部道場で多田塾の研修会。
集まった約50名ほどのうち、山田博信、坪井威樹の両先輩(ふたりとも私にとっては雲上人であるが)を除くと、なななんと私が最古キャリアの弟子である。来年の三月には多田先生の「本部道場入門50周年記念」のパーティがあるけれど、私は先生に遅れること四半世紀なので、そのパーティはそのまま私の「自由が丘道場入門25周年記念」でもある。
うたた感慨にたえぬものがあるです。
そうか、もう25年もやってるんだ。先輩たちのうちにはもう鬼籍に入られた方もいる。
あと何年かしたら、私も多田塾の「長老」とか「元老」とか言われるようになるのかしら。
その山田、坪井両先輩に稽古をつけて頂く。
ばしん、と投げられて、畳に頭をごんごんぶつけるけれど、こういう感じはものすごく久しぶりなので、懐かしくまた嬉しい。
師事すべき師があり、兄事すべき兄弟子がある、ということのありがたさが文字通り「身にしみる」。
ともあれ、半年ぶりの多田先生の稽古でぼろぼろになる。ふだん偉そうに腕を組んで「それは違うよ」とか教えているばかりなので、早稲田や東大気錬会の若者たちとやると息があがってしまう。技をかけている間はいいのだけれど、受け身をとると起きあがるのが面倒。
ロッカー・ルームでそうぼやいていたら、学生さんに「えー。ぼくたちは受け身をとってるほうが楽ですけど」と怪しまれた。
そうだった。私も昔は受け身はいくらとっても平気で、技を掛ける方が疲れた。
そういうもんなんだよね。
とにかく久しぶりに道衣がぐしょぐしょになるくらい汗をかいた。

札幌から田口亮子さんもやってくる。飛行機で来る。偉い。ほんとに偉いぞ。
『映画は死んだ』を買ってもらう。まいど。
1月の稽古始めには来てくれるそうです。

新幹線の中で江藤淳の『成熟と喪失』と『海舟余波』を読む。
『成熟と喪失』はそのむかし、1969年にお茶の水の茗渓堂書店で埴谷雄高の『永久革命者の悲哀』とどっちを買おうかなと迷った末に埴谷のほうを買ってしまって、それ以来30年間ご縁のなかった本である。(よく覚えてるなあ。そのころすごく貧乏だったから本の選択には全霊をあげて「いま自分が求めている本は何か」を真剣に考えていたのである。)
この選択はもちろんまったく間違っていなくて、18歳の私が読むべきは埴谷の方であって、江藤淳ではなかった。そして49歳になった今、江藤淳が一行一行水がしみ込むよう理解できる。(いま『永久革命者の悲哀』を読んでも一頁でやめてしまうかもしれない。だいたい ATOK に言わせると『永久各目医者の悲哀』だもの。なんだよ「各目医者」ってのは)
江藤がわずかに触れている「赦しを軸とする母性原理を男性が体現すること」という主題が切実なものと感じられる。
私は「第三の新人」たちとは違って、男性が母性原理の体現者でもあるということに論理的には抵抗を感じない世代に属する。私はひとりで子供を育て、ご飯をつくり、洗濯物にアイロンをかけ、ベランダの観葉植物を育て、近所の奥さんたちとにこやかに挨拶をかわした。
過去11年間私は「母」であった。
それによってほんらい「父」である私が体現すべき「父性原理」はどうなってしまったのだろう。
分かったのは「母」になってみると、やはり「父」が必要だ、ということである。それを一人二役でこなすほど私は人間のスケールが大きくないので、私は自分の外部に「父」を求めた。
レヴィナス先生や多田先生はおそらく私が求めた「父」である。
その「父」たちにほとんど盲目的に「仕える」というかたちで、私は自分のなかに構造的に欠如している「父性」を補償したのかもしれない。
「第三の新人」と私の決定的な違いは私がきちんと「父」をみつけたということである。
私の「父」たちは「道統の継承」、「師への全幅の帰依」というかたちで「個を超えるもの」「普遍的なもの」に結びついている。私は師からそれを学んだ。
母性が「顔と顔をみつめあう」ような閉じられた関係であるとすれば、父性は「シリウスの高み」を共に仰ぎ見る視線の仰角を師弟が共有する「開かれた関係」であるのではないか。
などということを風邪のひきっぱなの微熱の頭で考えた。
げほげほ。