26 July

1999-07-26 lundi

24日は合気道部・前期稽古終了おめでとう&ハッピーバースデイ宴会でありました。何がなんだか分からないくらいたくさん人がいて、全員と挨拶さえできなかった。林さんヴィデオ探して上げなくてごめんなさい。福岡さんチーズごちそうさま。おいしかったです。浦西さん、進路関係のお話途中でとぎれてすみません。飯田先生お仕事忙しいのにわざわざお越しいただきありがとうございました。北澤さん、うちのクラブうるさいでしょ。お誕生月のみなさん、あらためてハッピイバースデイ。ケーキ美味しかったでしょ。芦屋のブール・ミシェルのケーキです。
ようやくこれで宴会スケジュールは基本的に片づいた。(ふう)
7月は宴会多かったのです。非常勤講師懇談会のあと飯田先生、難波江先生、野崎次郎先生、藤井幸之助先生、それに国語学の安田先生(次の次の日に朝日新聞に写真入りで署名原稿書いていた。「あ、このひと、おととい横にいた兄ちゃんだ」)を迎撃。難波江vs藤井の「低音バトル」はなかなかの迫力。15日は小林先生と田川先生とマルコポーロで「コミケ」話で大笑い。18日は芦屋の国際交流協会で交換留学生の歓送迎会。20日は日文研のみなさん&怪しいパフォーマーたちが大挙乱入。24日は合気道宴会。ちょっと疲れた。

さ、心を入れ替えて、今日からアカデミックに生きるぞ。
まず『レヴィナスとラカン』という本を読むことにする。予想では「すごくつまらない」対「けっこうおもしろい」の確率が8:2。次に『イマージュ=映像の奇跡』というのを読む。これは私が仏文業界で畏敬する数少ない人(前田英樹さん)の本なので、大事に読む。それから『モンスター・ショー』。これはすでに半分読んだ。マニアックではあるが、恐怖というものの本質への洞察に欠けるようである。
これらについては、後日「うほほいブックレビュー」で書評をご覧下さい。

午後、県立芦屋高校でるんちゃんの担任と面接。
「お嬢さんは進路が・・・『漫画家。フリーター』とありますが?」
「は、どうもそのようで・・・・」
「成績・・・こんなんですけど。ご存じでした?」
「は、このあいだ見せてくれましたが・・・・や、これはすごい」
「遅刻が非常に多いんですけど、どういう生活されているんですか、失礼ですが」
「・・・・・」
しかし、私の父親が高校生のときに担任に絞られたのに比べたらこんなの鼻歌のようなものである。親孝行な娘だよ、あんたは。

暑いよ。こういうことをいくら言っても温度が下がるわけではないと知りつつ、言わせていただきます。
暑い。
しかし、暑いとか寒いとか疲れたとか、そういうことをいくら言っても状況は改善されない、と考えるのはやはり近視眼的な合理主義だといわねばならない。
実は、暑い、寒い、疲れた、などという叫びは事実認知的な言明ではなく、むしろ遂行的な「祈り」に近い。「何とかして下さい」と天にむかって祈願しているのである。
祈願する対象を持つということは、宇宙を統べる善なるものを信じるということである。これはすでに「救い」のモードに入っている。
黙って暑さに耐えるひとより、「暑いよお、なんとかしてよお」と悲嘆するひとのほうが神に近いのである。
どうでもいいけど、ヘルメットが黒いので、さわると火傷しそうである。おそらく頭部の体感温度は50度くらいになっているのではないか。熾天使が触れたのかもしれない。なんだか、くらくらしてきた。
ともかく、今日で前期終了である。めでたい。
夏休みだ。夏休みといっても休みではない。誤解してもらっては困る。
夏休みというのは私たちにとってはいちばん集中的に仕事をする時期である。どこにもいかなくていいので、朝から晩まで机に向かってこりこり本を読み、原稿を書く。中断なく7,8時間連続して机に向かうということが授業のあるふだんの日にはできない。しかし、これはたいへんに重要なことである。
というのは、思考が日常的な「素」の状態から、「テイク・オフ」するためには、一定時間の「ため」が必要だからである。これをバネにして「ぼよよん」と飛ぶのである。このときの思考回路の過熱ときな臭さは「ラリハイ」に近い。(私はこれを「アカデミック・ハイ」と呼んでいる)
「アカデミック・ハイ」はエンジンにターボがかかる状態に少し似ている。加速して、ぐんとGがかかってきて、「飛ぶ」のである。
2,3時間「ハイ」になったあと、脱力して暮れなずむ海を眺め、紫煙をくゆらしつつ、その日の最初の一杯を傾ける。アルコールとニコチンと脳内麻薬物質が織りなす至福の時間。脳細胞が「ちりちり」と音を立てて「溶けて」ゆく。これはやったひとにしか分からない。
すごく、いい。
やすいし、手軽だし、合法的だし、うまくるすとそれでお金までもらえる。お薦めの逸品です。(BGMには大瀧詠一の「座・読書」がよいと思います。)