中部電力が、浜岡原発の再稼働申請をめぐり原子力規制委員会に提出する基準地震動のデータを捏造していた問題で、会長と社長が辞任を表明した。再稼働申請も取り下げる。
浜岡原発は南海トラフ地震の「想定震源域」に位置する。だから建物の耐震性は安全性の根幹にかかわるデータである。それを改竄して、都合のよいデータを選んで安全性の根拠として報告した。リスクを低く見積もるということは、リスクヘッジにおいてあり得ないことである。
「フェイルセーフ」という工学的な概念がある。機械が故障するときには被害が最少化するように設計することである。遮断機は故障するときには下がって停止する。エンジンは故障すると回転を停止する。「フェイルセーフ」という名の映画がある(邦題は『未知への飛行』)。誤った爆撃命令を受信して、モスクワを核攻撃することになる爆撃機の話である。国防総省はもちろん爆撃機に「命令は誤報」と伝えようとするのだけれど、ソ連の妨害電波のせいで指示が伝わらない...。この映画の教訓は「あらゆる兵器は故障すると使用不能になるように設計されていなければならない」である。フェイルセーフが効かないときに何が起こるか、映画はそれを描いている。
でも、日本の企業にはどうもこの概念が定着していないように私には見える。そもそも「フェイルセーフ」の日本語訳が存在しない。「装置が正し作動しなくても安全を保障する機構」「誤作動、誤操作に対する安全保障」というのはたしかに正確な説明なのだけれど、日本語にはこれに相当する単語がない。
外来語を日本社会が採り入れる場合には、かつては漢字二字に訳した。今は漢字運用能力が衰えたので、カタカナ四字に訳すようになった(パソコンとかデジカメとかセクハラとかコンサルとか)。しかし、四文字に略語化されない外来語がある。「リスクヘッジ」も「コンプライアンス」も「レピュテーション・リスク」も「フェイルセーフ」も略語がない。
私見によれば、これらは日本人が無意識のうちに「採り入れたくない」と思っているものである。訳語を与えず、カタカナ表記にとどめてるのは日本社会には「トランジット」の資格でしか受け入れないという意思表示である。今はうるさいから一応受け容れたふりをしているけれど、そのうち時機を見て追い出したやろうと思っているのである(集合的無意識の領域での出来事なので「思っている」わけではないが)。
だから、日本の企業は「リスクヘッジ」をしないし、「フェイルセーフ」という工学的概念も定着しない。中部電力はその好個の適例である。
たしかに原発再稼働が遅れることは企業の収益にとってのリスクになる。しかし、再稼働を急ぐあまりデータを捏造したことがばれると企業に対する社会的評価を大きく低下させるし、万一再稼働を始めたところに地震が来て、安全性への見通しの甘さゆえに原発がシリアスな事故を起したら、それは国家的リスクになる。
それらすべてのリスクについてリスク分散を配慮するのが「リスクヘッジ」である。でも、リスクヘッジをするためには思いつく限りのリスクを列挙しなければならない。もちろん最優先に配慮すべきは「最悪のケース」である。ところが中部電力の経営者たちは、収益の減少リスクを、なぜかレピュテーション・リスクや原発事故リスクよりも優先的に配慮した。そのせいで会社は「解体的出直し」を命じられた。経営者たちは邪悪なのだろうか、それとも愚鈍なのだろうか。私は別の見方をする。それは彼らが「数値」というものに過剰な価値を付与したせいで、判断力を失ったということである。その話をしたい。
グッドハートの法則というのをご存じだろうか。「ある指標が目標になると、それはよい指標であることを止める(when a measure becomes a target, it ceases to be a good measure)」というものである。イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートが金融政策について述べたもので、「観察された統計上の規則性は、それを政策で操作しようとすると崩れる」というものである。
もちろんこれだけでは意味がわからないので、有名な実例を挙げる。「コブラの事例」である。英国領インドでコブラに噛まれて死ぬ人が増えたので、政府は「コブラの死体を持ってきたら報奨金を出す」という制度を作った。すると、人々はコブラを飼育して、その死体を運び込むようになり、コブラの個体数は増えてしまったという話である。
数値的指標というのは、目的達成までの行程を計量するためのものである。ところがその数値そのものが評価や賞罰の目標になると、人々は目的の達成よりも、数値の最大化を優先するようになる。たしかに指標となる数値は上がるけれど、目的達成は遠のく。
周りを見わたすと、いくらでも事例はみつかる。私が所属していたフランス文学会では、学会発表に厳密な点数評価をつけるようにしたら、若い研究者たちが「点数評価が厳密な分野(日本の場合は19世紀文学、それもフローベールとプルースト)」に集中してしまい、日本のフランス文学研究そのものの知的生産力も社会的影響力も著しく低下してしまったということがあった。コブラの事例とほとんど変わらない。そもそも学術研究というのは「他人がやらないこと」を研究するのが楽しいのだけれど、誰もやっていない研究は厳密な点数評価ができないので、独創的な研究はしばしば「査定不能(すなわち0点)」という評価を受ける。そんなことをしていたら学術の地盤沈下が起きて当然である。
中部電力の経営者たちが見ていたのは「収益」の数値である。自分たちの会社がそもそもこの日本社会でいかなる役割を果たすために存在するのか、会社の「ミッション」は何かということを考えずに、再稼働を時間的に早めるためには何をすればいいのかだけを考えて、そのための合理的な解として「データの捏造」を選んだ。数値目標の達成には成功したが、企業の社会的使命の達成には失敗した。グッドハートの法則の好個の適例として末永く語り継いでゆきたいと思う。
(JA:COM 9月24日)
(2026-10-03 17:19)