中高生からの質問6

2026-04-28 mardi

「自分」の型にはめようとする力が周りから働いたとき、どのようにすればよいですか。自分が自分ではなくなってしまいそうな感覚が、とても怖いです。

 「型」というのは、なかなか取り扱いの難しいものです。「型」は人をときに解放し、ときに束縛するからです。
 「型にはまる」と、それによって能力が高まったり、行動範囲が広がることがあります。
 例えば、お医者さんはみんな「同じ型」を演じています。白衣を着て、ディスプレイを眺めて、聴診器を手にして。国家試験を受かったばかりの新米医師も、50年臨床をやっている名医も、患者の眼からは「同じような医者」に見えます。だから、患者は診断をすなおに聴くし、処方にも従う。新米もベテランも、型を演じていると「同じくらいのレベルの医者に見える」せいで、医療は高い水準を保つことができています。患者は医師のレベルを自己責任で判定する責務から解放される。これはどう考えても患者にとってはプラスです。だって、病気になってよれよれの時に「さあ、今あなたの前にいる医者はどれくらいのレベルなんでしょう。あなたを治癒できるだけの技術と知識を持っているでしょうか。治療を受けても平気なんでしょうか。さ、自己責任で決定してください。You have the choise 」なんて言われたくないでしょう? そういう決定は下さなくてもよいというのが「型の効用」(の一つ)です。
 
 「共感」を表す言葉にはempathy とsympathy の二つがあります。エンパシーは「相手の内側に入り込んで相手の身になること」、シンパシーは「外から相手の身を思いやること」です。「痛みを共にする」のと「痛そうだなと思う」の違いです。
 「型にはまる」のはエンパシーを達成するための一つの方法だと言ってよいと思います。
 「エンパシーを達成する」というのは「自分ではなくなる」ことです。そうですよね。「相手の身になる」んですから。でも、それって、それほど「怖い」ことじゃないと思うんです。だって、エンパシーとシンパシーは紙一重なんですから。
 膝をすりむいて痛がっている人を見て「エンパシーを感じた人」と「シンパシーを感じた人」はだいたいどちらも「バンドエイドを差し出す」というリアクションをしますよね。飢えている人を見たら、どちらも「アンパン食べる?」というタイプのリアクションをしますよね。どちらも外側から見たら、それほど違うことをしているわけではありません。だから、「型」というものを、もう少し柔軟に、多義的にとらえても大丈夫なんじゃないですか。

 僕は武道の道場を主宰していますが、道場で稽古するときは、必ず道着に着替えます。そして、正面に礼をして、師範に礼をしてから稽古を始める。「儀式」です。でも、単なる虚礼ではありません。これは「はい、皆さん、今から『稽古モード』に切り替えてください」という指示です。
 そして、まことに不思議なことに、この「儀式」をすると、みんなの気持ちと身体が、それまでの「日常生活モード」から「稽古モード」に切り替わるんです。呼吸の仕方も変わるし、五感の感度も変わるし、目付も、動きも変わる。そういうふうにして、ふだんのままではなかなかアクセスできない心身の状態に移行できる。
 稽古中の僕の指示はかなり観念的です。「風雲に乗じて自在を得よ」とか「場を領する気の流れに乗れ」とか「我執を去って自在を得よ」とか。何のことだかふだん暮らしていると、わかりません。「なんのこっちゃい」です。これがでも、不思議なことに「道場という額縁」の中にいると、意味が通じてしまう。だって、実際にみんなの動きががらっと変わりますから。でも、稽古が終わって、道着を脱いで、道場で座っておしゃべりしているときは「額縁」はもう外れていて、ふだんの感覚に戻ります。
 この「切り替え」の手がかりとして「型」というのは、きわめて有効なものです。

 質問された方は「型にはめられる」という受動態での表現がたぶん気になっているんだと思います。あのですね、「型」は自分で選んでいいんです。というか、自分で選ぶものなんです。自分の活動領域や感情生活を広げたり、深めたりするためにはかなり有効な手立てなんです。「型にはまる」というのは。
 問題になっているのは、外部から無理やり強制される「型」ですよね。こちらの都合も聴かずに勝手に「この型にはまれ」と言われると「むっ」としますよね。それは、この場合の「型にはまれ」という命令が、自分を広げたり深めたり、活動的にするのではなく、むしろ自分を限定し、身動きさせなくする「呪い」に近いものだからです。型にはめられることで、生きる力が損なわれる。そういう「型」に対してはきっぱりと「嫌だ」と対応をしてよいと思います。
 「型にはまること」そのものに良否の違いはないと僕は考えています。「型にはまる」ことで自由になり、生きる力が高まることもあるし、「型にはまる」ことで不自由になり、生きる力が損なわれることもある。ケース・バイ・ケースです。
 道場で道着を着て、「型稽古」をするのも「型にはまる」ことだし、仏門に入って頭を剃って、墨染めの衣をまとうのも「型にはまる」ことです。でも、それによって、それまでの自分から離脱することができ、それまでより活動領域が広がり、深い生き方ができるようになったとしたら、これは「型にはまってよかった」という選択だということになります。
 逆に、仲間内で割り振られた「キャラ」を押し付けられて、あてがわれた「キャラ」から外れた言動をすると、「らしくないこと言うな」とか「らしくないことするな」という言い方で、活動領域を狭められ、生きる自由を損なわれるのだとしたら、これは「型にはまって悪いことが起きた」ということになります。
 でも、「キャラ」そのものを悪しきものと言い切ることもできません。「高校デビュー」というのがありますよね。『今日から俺は!』です。中学まではおとなしい優等生だった子が、自分のことを誰も知らない高校に進学したのを契機に「オレ、けっこうワルなんだ。うかつに近づくと火傷するぜ」と嘘の自己紹介して、そのままその在学中ずっとその「キャラ」で突っ張るということがあります(けっこう多いんです)。周りの級友が「ああ、そういう子なのね」と思って、それらしく遇してくれると、それまでとは全然違う自分を演じることができる。これ、結構楽しいです(実は僕もやりました)。
 というわけですから、どうぞ「型」を自在に使い分けて、自分にとって一番楽しい使い方を探し出してください。