「パンとサーカス」解説

2024-08-27 mardi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 今「解説」を読んでいるということは、最後まで読み終わって、深いため息をついているところですね。いかがでしたか。面白かったでしょう(自分が書いたわけじゃないんですけれど)。文庫で700頁超えの大作ですけれども、途中で読むのを止められなかったと思います。
 僕は最初は単行本で読んで、今度「解説」を頼まれたのでゲラで読んで、通読するのは二回目なんですけれど、細部は忘れているところが多くて、特に「エピローグ」のところは完全に記憶から脱落していたので、どういうふうに話が終わるのかわからずにどきどきしながらゲラを読んでいました。
 とにかく痛快な話ですよね。文学作品を評価するときの形容詞として「痛快」というのが適切かどうかわかりませんけれども、戦後日本が抱え込んでいるトラウマである「アメリカの属国」という屈辱的なステイタスから身をふりほどき、国家主権の回復、「自由日本」の創建をめざして戦うテロリストたちの冒険譚なんですから、痛快でないはずがない。
「日本属国論」は政治的言説の中ではなじみ深いものですが、小説としてはかなり珍しいのではないでしょうか。
 1986年に村上龍が『愛と幻想のファシズム』という小説を発表しました。多国籍産業が世界の政治経済を支配し、日本が米国の属国としてその収奪の対象となり、失政で中小企業が次々倒産し、巷には失業者があふれ、社会不安が限界まで亢進した近未来の日本に鈴原冬二というカリスマ的なリーダーが登場して、政府部内や自衛隊内部に同志的ネットワークを形成して、やがてクーデタを起こし、米国のくびきから逃れ、米ソ(ソ連があった頃の話です)に対抗できる軍事強国になる...というスケールの大きな物語でした。惰弱になった日本人を叩き直して、日本を再建するためには「日本を一度徹底的に破滅する必要がある」という鈴原の過激なアイディア(今なら加速主義と呼ばれそうです)に大多数の日本人たちは喝采を送り、独裁者による支配を懇請するようになる...というまことに毒の強い物語でした。
 僕の(頼りない)文学史的知識に基づくなら、『パンとサーカス』は『愛と幻想のファシズム』以来40年ぶりの「日本で革命が起きる話」です(「それ、オレも書いたぞ」という方がいたらお詫びします)。
 寵児と空也とマリアが仕掛ける政治的動乱の目的は「アメリカの属国身分からの脱却」、そして「国家主権の奪還」です。『愛と幻想のファシズム』の主人公がめざすものと政治的目標はほぼ同じです。それはこの40年の間、日本人はついに一度もクーデタも、対政府のテロも起こさなかったし、対米自立を果たすこともできなかったということを意味しています。
 40年間の無為
 政治的行動の欠如という「無為」のみならず、日本が進むべき未来を構想する努力そのものを怠って来たという想像力の「無為」。
 この二種類の無為が日本を蝕んでいる。島田さんはたぶんそう思って、この小説を書いたのだろうと僕は思います。
 政治的理想が実行に移されないことについては言い訳が効きます。「革命ができるような歴史的条件が整っていなかったのだ」と言えばいい。でも、政治的想像力が発揮されなかったことについては言い訳ができません。想像をめぐらせることなら牢獄の中にいたってできるからです。でも、その「手足を縛られていてもできること」を日本人はずっと怠って来た。怠るどころか、自分に禁じて来た。
 本作にはその日本人の長期にわたる集団的な無為に対する作家の憤りが伏流しています。でも、島田さんは(リーダー・フレンドリーな人ですから)その怒りを読者にじかにぶつけたりはしません。そうではなく、物語に激しい起伏を与え、物語の流れを加速することで、憤りを物語の推力に変換した。そのジェットコースター的な速度が読者を拉致して、一気に700頁読ませてしまう。たいした力業だと思います。
 でも、これはどうしても必要なことだったと思います。というのは、「想像力を発揮する」と今言いましたけれど、ことはそれほど簡単ではないからです。空想的な物語が現実変成力を発揮できるのは、物語が圧倒的多数の大衆によってエンターテインメントとして享受される場合だけです。to the happy few というような限定付きの物語(これは『赤と黒』の末尾にスタンダールが書きつけた言葉です)は文学を豊かにすることはできますが、現実を変えることはできません。
 島田さんは現実を変える気でいます(できたら革命をしたいと思っています。たぶん)。そして、そのためには想像力の暴走が、エンターテインメントとして、深い愉悦として、広範な読者によって経験される必要があると考えている。
 この企ては成功したと僕は評価します。
 この作品に触発されて、これから多くの人々が「劇的に変化した日本」を持てる想像力を駆使して思い描いてくれることを僕は切に願っております。

「日本属国論」は政治的言説としては繰り返し語られてきました(白井聡さんも、僕も書いてきました)。でも、政治学者は現状の分析とそこに至る文脈については語りますが、クーデタの手順について語ることまではしません。でも、文学者にはそれが許される。そして、今の日本人にもっとも必要なのは秩序を紊乱することができるほどの想像力の暴走である。島田さんはそう考えてこの小説を書いたのだと思います。
 物語の中でも、中国諜報機関の「モグラ」であるミュートは審問の場で、日米中の関係をみごとに短い言葉でこう言い切ります。

「日本が集団的自衛権を行使できるようにしたからといって、アメリカは何もする気はなく、リゾート気分で日本に駐留し、その費用を日本に負担させ、さらに増額を要求するだけでしょう。(...)有事の際は日本を守ると曖昧にリップサービスをするだけで、アメリカは何一つ具体的な戦略を示してこなかった。空母も出動させ、戦闘機を飛ばしてくれるんですか?日本が爆買いしたF35を出撃させてくれるんですか?米軍がゴーサインを出さないと、高価な戦闘機も宝の持ち腐れになるだけです。もしかすると、ポンコツであることがバレるから、出撃命令は永遠に下されないかもしれない。そもそもの大前提として、アメリカは決して中国との戦争には踏み切らない。アジア太平洋地域における軍事的影響力が一気に低下し、ハワイまで奪われかねず。その損失は計り知れないからです。」(223-224頁)

 米中戦争にかかわるミュートのこの見通しに僕は全面的に同意します。アメリカは米中戦争をする気がありません。全面戦争になれば核戦争になります。核戦争をすれば米中共倒れになることが確実である以上、アメリカが選択できるのは中強度の通常兵器による戦闘までです。
 人民解放軍は中越戦争以来、45年間実戦経験がほとんどありません。海戦経験はほぼゼロ。装備はハイレベルですが、実戦能力は不明。やってみないとわからない。でも、そんなリスクの高い賭けにアメリカは応じられません。ですから、台湾に中国が軍事侵攻してもアメリカがコミットしないという可能性はかなり高い。現に「台湾のためにアメリカがリスクを取ることはない」と公言する政治家、政治学者はアメリカ国内には少なくありません。
 それに、米中戦争の帰趨はどう転ぶか分かりません。いささか旧聞に属しますが、2017年にランド研究所は「妥当な推定を基にすれば、米軍は次に戦闘を求められる戦争で敗北する」というレポートを発表しています。同年、ジョセフ・ダンフォード統合参謀本部議長も「われわれが現在の軌道を見直さなければ、量的・質的な競争優位を失うだろう」と警告を発しています。つまり通常兵器による戦争ではアメリカは中国に敗けるかも知れないということです。もちろん「このままでは大変なことになる」という軍人からの警告は多少割り引いて聴く必要があります。リスクを過大評価して、国防予算の増額を要求するのは軍人の本務の一部ですから。
 それでも、「中国と戦ったら敗けるかもしれない」とシンクタンクや軍高官が明言するというのは、かなりシリアスな状況だと考えてよいと思います。アメリカは「対中戦争はできるだけしたくない」と思っている。それは確かです。
 とはいえ、中国が台湾に侵攻した時にそれを放置すれば、西太平洋におけるアメリカの軍事的優位も外交的信頼も失われます。日本と韓国は、アメリカが台湾を見捨てれば、アメリカと自分たちの間の軍事同盟も「実は空文かもしれない」と思い始めるでしょう。日韓の信頼を失うことがもたらすリスクと、中国との全面戦争にコミットすることがもたらすリスクのどちらが「致命的」であるとホワイトハウスは考えるでしょうか。ことは信義の問題ではなく、損得の問題です。そして、算盤を弾いた末に、アメリカは米中戦争を回避することを優先させると僕は思います。
 ですから、台湾有事になったら、自衛隊の尻を叩いて「存立危機事態なんだから、まずは日本人が戦え」と命じておいて、在日米軍主力はとりあえずグアムまで後退すると思います(「日本を守るためには、米軍主力が無傷であることがどうしても必要なのだ」と言って)。
 アメリカにとって必要なのは時間を稼ぐことです。そして、AI軍拡で中国に対してアドバンテージを持つことです。中国はこれから人口減と経済成長の鈍化を迎え、遠からず国力はピークアウトします。それに中国共産党は「海外からの侵略リスク」より「国内における反乱リスク」の方を重く見ています(だからこそあのような徹底的な国民監視システムを構築しているのです)。ということは、いずれ文化大革命や天安門事件のような壊乱的事態が出来するかも知れない(北京はそうならないことを願い、ホワイトハウスはそうなることを願っています)
 いずれにせよ、アメリカにとって必要なのは時間です。日本や韓国を見捨ててもそれで時間が稼げるなら、アメリカにとっては帳尻が合う。
 中国が台湾や韓国や日本に軍事侵攻した場合、かなりの抵抗が予測されます(特に台湾と韓国では。日本ではそれほどの抵抗はないと中国共産党指導部は考えているはずです。というのは日本人は「外国軍隊に蹂躙されることに対して特段の心理的抵抗を感じない国民」だと国際社会からは思われているから)。
 それでも日本を実効支配するためには、長期にわたって数十万規模の軍隊と行政官を常駐させなければなりません。これは中国にとってはできれば負担したくないコストです。ですから、中国は日本を勢力圏に置く場合、直接統治するよりは、華夷秩序以来長い歴史を持つ「辺境の属領には高度の自治を許す」という使い慣れた「一国二制度」を持ち出してくるはずです。「かつての香港」程度の政治的自由を許せば、日本の支配層は簡単に「中国シフト」に切り替えて延命を図ります。日本の「被支配層」は久しく「長いものには巻かれろ」とだけ教えられてきたので、レジスタンスを戦うなどということは思いつきもしないでしょう。「アメリカに支配されるのも中国に支配されるのも、国家主権がない点では変わりがないからね。ははは」と寂しく笑って人々はこの事態をやり過ごすはずです。
 アメリカに見捨てられ、中国の辺境の自治州となった日本は、その後どうなるのでしょうか。「アメリカ憎し」の一念で中国をバックにした「反米の尖兵」となるでしょうか。そんなことはないような気がします。だって、あまりにも愚かで腰抜けだったせいでアメリカに「いいようにされた」だけの話ですから。日本人がいくら「自分たちは被害者だ。日米安保条約ひとつであれだけ日本から収奪しておきながら、肝心のときに置き去りにするなんて・・・アメリカは80年分の『みかじめ料』を返せ」と泣訴しても、日本に同情して、ともにアメリカ批判に加わってくれるような親切な国は国際社会にはたぶん一つもないと思います。国連総会決議(アメリカは日本に謝罪して、金を返せという決議)もたぶん行われないと思います(それって自己責任でしょ・・・と言われるだけで)。

 あ、ついうっかりと僕も妄想を暴走させてしまいました。すみません。
 でも、僕はこういうタイプの想像力の行使はとてもたいせつなものだと思うのです。「歴史から学ぶ」という場合に、僕たちはほとんど「起きたこと」を素材にして「どうしてそれは起きたのか」を問います。歴史家の仕事はそうです。でも、それと同じくらいに「起きてもよかったのに起きなかったことはなぜ起きなかったのか」について思量することがたいせつです
 例えば、ミッドウェー海戦のときに連合艦隊は主力を失い、もう戦争継続する戦力がありませんでした。ですから、「ここで講和工作を始める」ことが合理的な解でした。現に、吉田茂や牧野伸顕や近衛文麿は和平工作をこの時水面下で開始していました。講和が実現していれば、B29による空襲も、南方戦線での戦病死や餓死も、原爆投下もなかった。ミッドウェー海戦での死者は3000人です。真珠湾攻撃での日本軍死者は60人ほどでした。この時点で講和していれば、海外領土を失い、巨額の賠償金を課されたでしょうが、310万に及ぶ人々は死なずに済んだ。「1942年で終戦を迎えた場合の戦後日本」は、僕たちが知っている戦後日本とはまったく別の国であったはずです。大正生まれの男子の七人は一人が死にました。その人たちが死なずに済んだ日本はどんな国だったのか。日本がほんとうのところどういう国であり、日本国民が何者であるかを知りたいと思うなら、この「起きてもよいはずのことが起きなかった世界」について想像力を駆使することもたいせつな仕事だと僕は思います。
 フィリップ・ロスは『プロット・アゲンスト・アメリカ』で1936年の大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトではなく、共和党のチャールズ・リンドバーグ大佐が大統領になった「並行世界」を描き出しました。親独派のリンドバーグ大統領はドイツ、日本と不可侵条約を結び、アメリカは世界大戦にはコミットしないという「アメリカ・ファースト」政策を実行します。その「戦争にコミットしなかったアメリカ」がどのような抑圧的で暴力的な社会になるか。それをロスは作家的想像力を駆使して描きました。そして、この「そうなったかも知れないけれど、ならなかったアメリカ」はアメリカという国の本質と実相を現実の歴史的出来事を通じて明かす以上にありありと開示してくれます。
「起きてもよかったのに起きなかったこと」について想像することと、「起きるはずがないと今思われていることはどんな条件が整えば起きるか」を想像すること、これは歴史学ではなく、文学の仕事です。歴史家は「起きたことはなぜ起きたのか」を確定するのが本務ですから、「起きてもよかったことが起きなかった理由」について考える暇なんかありません。この仕事は文学が引き受けるしかない。
『パンとサーカス』には「今のところ現実になっていない想像上の日本」が描かれています。でも、この技巧的に歪められた画像を通じて、僕たちは現実の日本の実相を今目の前にあるもの以上ありありと見ることができます。
 一人でも多くの読者がこの小説を読んでくれることを願っています。