共感ベース社会の陥穽

2024-07-27 samedi

 先日、ある文学賞の選考にかかわっている編集者からこんな話を聴いた。この文学賞では投稿されてきた作品を編集者たちがまず「下読み」をして、候補作を絞り込んでから選考委員会に上げる。何百本も応募作が届くのだから当然である。その「下読み」の時に、若い編集者がある作品について「これは落としましょう」という低い評点を付けた。理由を訊ねたら「主人公に共感できないんです」とこともなげに言ったそうである。
「驚きました」と私に話してくれた人はため息をついた。「主人公に自分が共感できるかどうかが文学作品の質の判定基準なんですよ・・・」すごいですね、と私も応じた。その基準だと『悪霊』や『変身』はたぶん一次選考で落ちてしまうだろう。
 共感できるかどうかというのは個人の気質の問題である。「自分と近い」ということはその作品に「価値がある」ということを意味しない。そんなのは自明のことであるだと思っていたが、いつの間にかそうではなくなっていた。自分とケミストリーが近いかどうかがある時期から「価値」の基準に採用されるようになった。
 今回の都知事選を論じたものの中に、二位になった石丸候補について、「若い人たちの共感を集めた」という分析を多く読んだ。そうだろうと思う。攻撃的で冷笑的であることが生き延びる上では力強い「ウェポン」になるということを経験的に習得してしまった若い人たちが、石丸候補のうちに「自分と同じケミストリー」を感じることに不思議はない。
 左派系の人たちは「若い人たちは情報が不足しているから、こんな選択をしたのだ。事実を開示されたらこんな投票行動をしなかったはずだ」という「啓蒙主義的」総括に傾きがちだけれど、私はこれには容易に同意することができない。投票行動が共感ベースなら情報の多寡は問題にならないからだ。共感ベースなら、石丸候補がいかなる政治的立場を取っているかも、公約が何であるかも関係がない。動画を見て、街宣を聴いて、自分と「同じ生地」でできている人間らしいと感じたら、投票行動を決定する情報としてはそれで十分である。
 でも、「共感」ベースで政治的判断を下すことについては、それがいかに危険なことかはしっかりとアナウンスしなければならないと思う。「共感」ベースで政治的判断を下すということは、理解も共感もできない人たちとのコミュニケーションは初めから放棄するということだからである
 ただ、このリスクについては左派の人も決してそれほど神経質であるようには見えない。ずいぶん前から「市民目線」とか「生活者視点」ということを左派の人々も言うようになった。それに基づいて公約の適否を判断してよいということなのだとすると、それは要するに「自分にとっての損得」を基準にして政治的に行動してよいということである。しかし、自己利益の増大が集団全体の利益の増大に結びつくわけではない。部分最適と全体最適はしばしば背反する。当たり前のことである。だとしたら、どのあたりが「おとしどころ」かを思量するのが、政治的に成熟した市民のなすべきことではないのか。それをあっさり「自分目線で」と言い切ってしまう人が右派の共感ベースの投票行動を批判することができるだろうか。
 不安なことに、共感ベースの政治に対するつよい懸念や批判を私はこの20年ほど目にした覚えがない。それどころから人々は久しく「理解でき共感できる身内」がどこからどこまでか精密な境界線を引くことを「アイデンティティーの確立」と称して、その不毛な仕事にひたすらうちこんできた。そうやって「身内」とはわずかな目くばせや符牒だけで身内認定できる技術を磨いてきた。みごとな達成だと思う。けれども、そうやって孜々として共感の輪を創り上げていたら、気がついたら「身内」以外とは意思疎通が困難になってきていたということはないのだろうか。
 その「身内」認定にしても本人が「あいつはオレと同じケミストリーの人間だ」と思い込んでいるだけで、一種の関係妄想に過ぎない。非正規雇用の若者が「経営者目線」を内面化したり、年収200万の人間がIT長者に喝采を送ったりする光景は珍しくないが、先方は別に「貧しい身内」を内輪のパーティに呼ぶ気なんかありはしない。
 近代市民社会がそれまでの部族社会から脱却できたのは「共感ベース」を廃して「社会契約ベース」にしたからである。共感ベースではある程度以上の規模の集団を維持することができないからである。
 旧ユーゴスラビアはかつて「六つの国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」から成る混成国家だったが、「政治単位は共感ベースであるべきだ」というイデオロギーが支配的になったせいで内戦の果てに六つの国に分解した。
 ホセ・オルテガ・イ・ガセーは今から100年近く前にこう書いている。
「文明とは何よりもまず共同生活への意志である。他人を考慮に入れなければ入れないほど非文明的で野蛮である。野蛮とは、分解への傾向である。だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」(『大衆の反逆』)
 今世界は再び野蛮に退行しているように私には見える。(『週刊金曜日』、7月17日)