近代市民社会の再興のために

2024-07-21 dimanche

『月刊日本』8月号にロングインタビューが掲載された。「野蛮への退行が始まった」というタイトルだけれど、私が言いたかったのは「近代市民社会を再興しなければならない」という話である。

― 現在、世界は歴史的な大転換を迎えています。今、世界では何が起きていると考えていますか。

内田 今起きているのは「近代の危機」だと思います。近代市民社会の基本理念は「公共」です。その「公共」が危機的なことになっている。
 ホッブズやロックやルソーの近代市民社会論によると、かつて人間は自己利益のみを追求し、「万人の万人に対する闘争」を戦っていた。この弱肉強食の「自然状態」では、最も強い個体がすべての権力や財貨を独占する。でも、そんな仕組みは、当の「最強の個体」についてさえ自己利益の確保を約束しません。誰だって夜は寝るし、風呂に入るときは裸になるし、たまには病気になるし、いずれ老衰する。どこかで弱みを見せたら、それで「おしまい」というような生き方はどんな強い人間にもできません。それよりは、私権の一部、私財の一部を「公共」に供託して、「公権力」「公共財」を立ち上げた方が私権も私財も結果的には安定的に確保できる。人間がほんとうに利己的に思考し、ふるまうならば、必ずや社会契約を取り結んで、「公共」を立ち上げるはずである・・・というのが近代市民社会論です。
 もちろん、こんなのは「お話」であって、「万人の万人に対する戦い」というような歴史的事実は実際には確認されておりません。社会契約説は18世紀の人たちが手作りしたフィクションです。しかし、市民革命を正当化するためにはこのフィクションが必要でしたし、歴史的条件が要請した物語であれば、作り話であっても現実変成力がある。これは歴史が証明しています。
 国際社会も同じです。もともと国家は自国の国益のみを追求し、自然状態においては「万国の万国に対する闘争」を繰り広げていた。こちらはある程度までは歴史的事実です。しかし、二度の世界大戦を経て、多くの国々は自国第一主義と決別し、自国の国益を部分的に制限しても、国際機関に国権と国富の一部を供託して世界的なスケールの「公共」を立ち上げ、国際秩序を維持するという方向をめざしてきました。オルテガは「文明とはなによりも共同生活への意志である」と『大衆の叛乱』に書いていますが、人類はその文明の進化にともなって「共生」を少しずつ実現してきたのです。
 しかし今この近代的な国際秩序の理念そのものが揺れ動き始めました。個人は自己利益のみを追求すればよい、国家は自国益のみを追求すればよい。そういう「自分第一主義」が支配的なイデオロギーとなってきて、国も「公共」から撤退しようとしてます。「法の支配」が終わり、世界は再び「力の支配」、弱肉強食の「自然状態」へ逆行しようとしているように僕には見えます。

― なぜ個人や国家は「公共」から撤退するようになったのですか。

内田 一つは国民国家が基礎的な政治単位として機能しなくなったからです。いわゆる「ウェストファリア・システム」では、国民国家が基本的な政治単位でした。「国民国家」(Nation State)というのは、人種・言語・宗教・生活文化を共有する同質性の高い人々が「国民」(Nation)を形成し、それが政治単位としての「国家」(State)を形成するという国家モデルです。この国民国家を基礎的政治単位として、「国際社会」が形成されてきました。
でも、これはあくまで「そういう話になっている」ということに過ぎません。実際に国連加盟193の政治単位だけで国際社会は形成されているわけではありません。非国家アクターのプレゼンスが現在は局面によっては国民国家よりも大きくなってきている。資本、商品、情報、人の高速かつ大量のクロスボーダーな移動はもう日常的なことになりました。
 新たに登場した非国家アクターの一つはテロ組織です。アルカイダやイスラム国のようなテロ組織にはそもそも守るべき「国民」も「国土」も「国境」もありません。
もう一つの非国家アクターはグローバル企業です。グローバル企業は特定の国家に帰属せず、株主たちの利益を最大化するために経済活動を行っています。かつての国民国家内部的企業は、祖国の雇用を増大させ、国税を収めて祖国の国庫を豊かにすることを(とりあえず口先では)企業活動のインセンティブとしていましたが、現代のグローバル企業にはそんなものはありません。最も製造コストの安い国で製造し、最も人件費の安い国の労働者を雇用し、最も税率の低い国に本社を置き、どこの国民国家の国益にも貢献しないことで利益を上げている。
この二つの非国家アクターが国際社会の主要なプレイヤーになったことで、「公共」という概念が急激に空洞化してと言ってよいと思います。

― 我々は非国家アクターの脅威に直面している。

内田 そうです。そして新しい問題が、「テックジャイアント」(巨大IT企業)です。グーグル、アップル、メタ(旧フェイスブック)、アマゾン、マイクロソフト、テスラ、オープンAIなどのテックジャイアントは、今や民主政にとっても、近代市民社会にとっても脅威になりつつあります。
 カール・ロイズ『「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』(東洋経済新報社)、ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる グローバル中流階級への警告』(東洋経済新報社)などは、その危険性に必死で警鐘を鳴らしています。
 テックジャイアントはすでに一企業で中規模国の国家予算に匹敵する資産を有しています。すでにGAFAの純資産の合計はフランスのGDPに匹敵する額に達しています。アマゾンの創業者ジェフ・ベゾスの個人資産は2080億ドル(約33兆2800億円)、テスラのCEOイーロン・マスクの個人資産は1870億ドル(29兆9200億円)。少し前に世界で最も富裕な8人の個人資産は、下位の36億人の所得と同じであるという驚くべき統計が示されましたが、世界の富の大半が超富裕層に排他的に蓄積されるという傾向はますます加速しています。
 加えて、テックジャイアントの先端技術は現在の世界秩序を根底から揺るがすようなリスクをもたらしました。AI搭載兵器は戦争の形態を一変させるかも知れない。ディープフェイクと国民監視システムは民主政を破壊するかも知れない。技術革新は大規模な雇用喪失をもたらすかも知れない。どの場合でも、テクノロジーの進化がもたらすメリットよりもそれがもたらすリスクの方が大きい。メリットよりリスクが大きいテクノロジーは野放しにはできません。
 テクノロジーの進化は自然過程であり、誰にも止められないとこれまでは考えられてきました。でも、それがもたらすリスクがここまで大きいと、そんな無責任なことは言ってられなくなった。
 欧米では「テクノ・プルデンシャリズム」(techno-prudentialism /技術的慎重主義)という新しい考え方が登場してきました。「人類にもたらす被害が大きい可能性がある技術については、その野放図な進歩を止めるべきだ」というものです。科学技術の発達を手放しで歓迎してきた人類が歴史上はじめて「われわれが生き延びるためにはテクノロジーの進化を一時停止させて、少し冷静になった方がいい」ということを言い出した。これは画期的なことです。
 でも、テクノロジーを抑制的に使用するとしても、当の先端技術がどんな仕掛けで、どんなリスクを含んでいるのかを完全に理解しているのはそれを開発した企業の技術者だけです。ですから、技術の進歩を抑止するためにもし国際会議を開催する場合には、テックジャイアントのメンバーを会議の席に列国政府と同じステイタスで招かざるを得ない。テックジャイアントの協力がなければもう現行の国際秩序を維持することができないとしたら、このCEOは他国の大統領や首相と同格の政治プレーヤーとして遇するしかない。
 テックジャイアントが民主政にとってのリスクである理由はそれだけではありません。超富裕層が民主国家の仕事を代行するかも知れないということです。例えば、ビル・ゲイツ、イーロン・マスク、マーク・ザッカーバーグらの大富豪は2010年から大規模な社会貢献キャンペーンを始め、気候変動・教育・貧困対策などに関わるプロジェクトのために数千億ドル(数十兆円)を供出しました。今どきの超富裕層は「意識が高く」、貧困や疾病に苦しむ人々対しても同情的な「わりといい人」たちらしい。
 これまでの民主政でしたら、自分たちの代表者を議会に送り、そこで法律を作り、政府にそれを実行してもらうという手間暇をかけなければならなかった。でも、テックジャイアントたちを「領主」として頂く「新しい封建制」なら、「領主」さまに直接請願して、「いいよ」と言ってもらうとたちまち望みがかなう。民主主義的な煩瑣な手続きを踏むよりも、テックジャイアントから「富のおこぼれ」を恵んでもらう方が話が早い。だったら、「別に民主制なんて要らない」という話になる。民主政を迂回するより、「領主」さまの膝にとりすがって「ご主人さまの食卓から落ちてくるパンくず」(カール・ロイズ)を当てにする方が現実的だ。民主政の主権者としてふるまうより、無力な平民として「心優しい領主」のお慈悲を乞う方がはやく幸福になれる。そんな考え方が広がれば、民主政は終わります。コトキンが「新しい封建制」と呼んだのは、このような事態のことです。

― テロ組織は国際秩序を壊乱し、テックジャイアントは国際秩序に関与している。

内田 「自国ファースト主義」の亢進は、これらの非国家アクターの脅威に対する国民国家サイドからの防衛反応だと僕は見ています。自国ファースト主義者は国際秩序の維持コストの負担を拒否し、自国の国益を最大化だけを追求することです。中国、ロシア、北朝鮮、イランのような権威主義的国家がそうですし、インド、インドネシア、トルコなどもそれに準じている。ヨーロッパでもハンガリー、ポーランド、オランダなどは民主主義国家ですが選挙を通じて極右の自国ファースト主義政党が政権の座にある。アメリカもトランプが再選されれば、「アメリカ・ファースト」を掲げて、国際秩序の維持コストの負担を拒否するようになる。「中国やロシアのような権威主義国の独裁者に対抗するためには、民主主義国も強権的なリーダーを立てるしかない。こちらが国際秩序のためにルールを守って抑制的に行動し、あちらがルールを無視して利己的な行動をするなら、勝負にならない。だったら、こちらもルールを無視するしかない」というロジックに抵抗することは困難です。
 戦後久しく米国は超覇権国家として国際秩序を主導してきました。そのためのコストに耐えられるだけの軍事力と経済力があったからできたことです。でも、イラクとアフガニスタンで国力を消耗し、経済力も衰え、ついに国際秩序を維持するコストの負担に耐えられなくなりまし。オバマが「世界の警察官」をもう辞めると宣言したのも、トランプが「アメリカ・ファースト」を掲げてた。同一の文脈の中の出来事です。
 確かに衰退したとはいえ、米国は依然として世界最強の軍事大国・経済大国です。だから、「国際秩序なんか知ったことか。米国さえよければいいんだ」と開き直れば中国やロシアやイランに負けることはまずありません。その気になれば、米国は「世界最強のならず者国家」になれるということです。世界各国が喉笛を掻き合う野蛮な「自然状態」に戻っても、その荒れ果てた「マッドマックス」的ディストピアでも最後に生き残っているのは米国でしょう。

― しかし、それでは結局国益を確保できないというのが二度の大戦の教訓だった。仮にこのまま第三次世界大戦に突入して核戦争が起きれば全員が敗者になる。

内田 その通りです。結局、「自国ファースト」はいずれ自分で自分の首を絞めることになります。「自分さえよければそれでいい」という構文の主語はいくらでも小さくできるからです。現に、米国ではテキサスでもカリフォルニアでも州独立の運動が活発化しています。仮にテキサス州が独立すれば、人口2900万人、GDP世界9位の「大国」が生まれる。カリフォルニア州が独立すれば人口3700万人、GDPは英仏より上位の世界5位の「大国」になる。
 今米国で猖獗を極めている「アイデンティティー・ポリティクス」というのは要する属性の近いものが固まって、他の集団とゼロサムの資源争奪戦を展開するというものです。「お前はどの部族(tribe)の人間だ?」という問いがまず立てられる。違う部族の者とは共生しない。協働もしない。もちろん公共財も共有しない。
 この「より同質性の高い部族に縮減してゆく」傾向が米国では顕著になっています。ジョージア州フルトン郡サンディスプリングでは、富裕者たちだけが自分たちの納めた税金が他の地域の貧民に分配されることを嫌って、「金持ちだけの自治体」を作りました。税収の多くを失ったフルトン郡は図書館などの公共施設が維持できず、街灯まで消されました。米国中でこれに続く動きが起きています。
 テキサス州やカリフォルニア州の独立運動も発想は同じです。自分と同質の者だけと部族を形成してその利益を最優先する。「純化と縮減」です。この傾向が加速すれば、米国は国としてのまとまりを失うことになる。公共はいったん解体し始めると、あとはもう歯止めが効きません。「純度が高いのは絶対善である」というルールを採用すれば、同じ部族内であっても、純度の高さを求めて、さらに小さな同質集団に分裂することはもう止められない。最後にばらばらになる。公共を形成するための努力を拒否すれば、どんな共同体もいずれ解体します。オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのです。旧ユーゴスラビアはかつて「六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」を持つ多民族国家でしたけれども、同質性の高い集団が基礎的政治単位になるべきだというイデオロギーに屈服した末に「六つの国」に分裂して崩壊しました。

― 現在起きている「近代の危機」は近代化の結果であり、近代は限界にぶつかって自滅しようとしているようにも見えます。それならば、いま必要なのは「近代の超克」ではありませんか

内田 いま僕たちが直面しているのは「近代の限界」というより「前近代への退行」だと思います。だから、今必要なのは「近代の復興」であり、「近代への回帰」です。もしかすると、「近代市民社会」はまだ歴史上一度も実現したことがなかった幻想かも知れません。だとしたら、「近代市民社会の実現」こそが僕たちに課された歴史的使命だということになります。

―欧米と同じように、日本もグローバル化の影響で国民国家の枠組みが動揺しています。

内田 日本は「縁故主義」(nepotism)と「部族民主主義」(tribe democracy)のせいで、今や「三流独裁国」に転落しつつあります。自民党の世襲議員たちは縁故がらみの部族を形成して、国民から供託された公権力を私利のために用い、公金を私物化しています。でも、そんな無法ができるのは、エスタブリッシュメントのメンバーたちがお互いに融通を図り、連携を密にして、相互扶助ネットワークを形成しているからです。
 一方、貧しい国民は「自己責任」を求められ、分断し孤立しています。奇妙な話ですが、豊かな人たちはしっかり相互扶助の仕組みを作り、その恩恵を享受しているのに対して、貧しい大衆は苛烈な競争に投じられ、お互いの足を引っ張り合い、公共財の分配に与ることができず、政治的に無力な状態に釘付けにされている。
 この点を見落としている人が多いのですが、今の日本は二つの集団原理が並行して存在しているのです。エスタブリッシュメントはしっかり相互扶助ネットワークを形成して、メンバーの政治的・経済的リスクをカバーしている。そのおかげで法を犯しても処罰されず、裏金を懐に入れても課税されない、どれほど失政をしてもメディアは報道しない・・・という仕方で特権を享受している。それに対して、貧しく無力な大衆たちには「勝った者が総取りして、負けたものは自己責任で路頭で野垂れ死にするしかない」という新自由主義イデオロギーが選択的にアナウンスされている。
 勘違いしている人が多いのですが、権力と財貨を占有するエスタブリッシュメントは「新自由主義」イデオロギーなんか信じていませんよ。これは「貧乏人向け」のイデオロギーなんです。エスタブリッシュメントの方々は職業選択の自由も移動の自由も言論の自由も断念して、部族に忠誠を誓い、部族から命じられた役割を忠実に演じ、その代償として権力と富の分配に与っている。彼らは自分たちだけの「小さな公共」をとても大切にしている。ブルジョワジーは連帯し、プロレタリアは孤立させられている。昔からずっとそうなんです。だからマルクスは『万国のプロレタリア、連帯せよ』と呼号したんです。ブルジョワジーが国境を越えて連帯しているのに、プロレタリアが孤立してたら勝ち目がありませんからね。
 今の日本のように国民の多数が貧しく、政治的に無力な状態に置かれると、たしかに統治コストは安く上がります。支配層が公共財を私物化しても、公権力を私事に利用しても、異議を申し立てる人がいない。「エスタブリッシュメント」にしてみたら、まことに暮らしやすい社会です。でも、そんな社会からはもう「新しいもの」は何も生まれてきません。どんどん国力が減退してゆくだけです。今の支配体制が続けば、日本の国際社会におけるプレゼンスは底なしに低下してゆくでしょう。でも、エスタブリッシュメントはそんなこと別に気にしていない。彼らにしてみたら国なんてどうでもいいんです。まだ日本にはいくらでも「売れるもの」がある。土地も売れるし、観光資源も売れるし、水も売れるし、社会的インフラも売れる。それを外資に売り払って私財に付け替えていれば、日本が沈む時に、自分たちだけはハワイでもシンガポールでもカナダでも逃げ出して、日本を売った代価で孫の代くらいまでなら優雅に暮らせる。だからだいぶ前から「泥船」から逃げ出す準備だけはしてますけれども、ぎりぎりまで「泥船」に踏みとどまって、持ち出せる限りの財宝を持ち出して、自分たち専用の「救命ボート」で逃げ出すつもりでいる。
 もう「日本」という政治単位そのものの土台が崩れようとしている。排外主義の亢進はその「国が壊れる」ことへの恐怖心が生み出したものですが、別に移民や外国人が日本を壊しているわけではありません。日本を壊しているのは日本人自身です。「自分さえよければそれでいい」という人たちが日本の公共を壊している。
 中国脅威論や移民亡国論のような排外主義的な言説がこれからますます盛んになるでしょう。でも、何より許しがたいのは、公権力を私的に利用し、公共財を私物化してきた自民党が国民に向かって「愛国心が足りない」などと言っていることです。どの口が言うのか。
 本当に愛国心を涵養したいのなら、「世界のどの国にも住みたくない。何がなんでもこの国で暮らしたい」と全国民が思えるほど居心地のよい国を作ればいい。それなら国民は自分の国を守るためになら何でもしようと思いますよ。税金だって喜んで払うし、国旗にも敬意を示す。愛国心はプロパガンダで生まれるものじゃない。
 それに日本はまだまだ捨てたものじゃありません。北九州で「抱僕」というホームレス支援活動をしている奥田知志牧師、大阪で「D×P」という10代の少年少女を支援している今井紀明さんなど、全国各地で心ある人々が身銭を切って「公共」を立ち上げ、見返りを求めないで相互支援ネットワークを手作りしている。
 今起きているのは「前近代への退行」「公共からの撤退」です。だから、僕たちが目指すべき方向は明らかです。「近代市民社会」の理念に回帰して、「公共」を再構築することです。ただし、それはエスタブリッシュメントがやっているような部族的な相互支援とは違います。彼らは僕たちが差し出した公共物を食い物にするための収奪のネットワークを形成している。僕たちがめざすのは公共を創り出す贈与のネットワークです。誰からも収奪しない。国際社会では国際秩序を維持し、日本国内では相互支援ネットワークを立ち上げてゆく。

― 内田さんは日本が目指すべき方向として「日本型コミューン主義」を唱えています。

内田 日本の伝統的な統治の理想は「君民共治」です。天皇を中心に日本がまとまり、国民が「社稷」的共同体のうちに所を得て安らぐ姿を古代から日本人は理想としてきた。その理想の実現を妨げているのは、君と民の間にわだかまって権力と財貨を独占する中間的権力機構であるという「物語」は古代からずっと同じです。蘇我氏、藤原氏、平家、源氏、北条氏、足利氏、徳川氏・・・これらの「君側の奸」たる中間的権力機構を廃して、「君民共治」の理想に回帰する。このストーリーパターンは大化の改新から三島由紀夫まで変わりません。日本人の政治的エネルギーはそういう「君民共治的コミューン主義」でしか高揚しない。
 19世紀から後、明治維新、大正維新、昭和維新・・・と政治革命には必ず「維れ新たなり」という言葉が使われましたけれど、意味するところはどれも同じです。そして、それを掲げて政治革命を主導した人たちが次の中間権力者になるという末路も同じです。暴力的に権力や財貨を奪取した者は、そのふるまいを通じて「斃されるべき者」という歴史的カテゴリーに組みこまれる。どうやってこの前者の轍を踏まずに日本的コミューン主義を実現するのか。それが僕たちの思想的課題だと思います。
 今の権力者を打倒し、その権力財貨を奪い取ることではなく、自らが持てるものを「差し出す」ことによって、贈与したものを原資として新しい公共を実現する。それが僕の提唱する「日本型コミューン主義」です。

― 血を流さず国を変える道があるのですか。

内田 わかりません。でも、「贈与しても目減りしないもの」を公共の基礎にするということは理論的には可能です。権力や財貨は奪い取られると失われる。ゼロサムのゲームです。だから争いが終わらない。文化資本は「贈与しても目減りしないもの」です。知識や教養や技能は与えても減らない。
 ふつう支配階層は権力と財貨と文化資本を独占し、もっぱら文化資本の格差を階層形成の「ものさし」に使います。でも、なぜか現代日本では全くそうなっていません。エスタブリッシュメントたちは力とカネの占有にはたいへん熱心ですが、文化資本にはまったく関心がない。今の日本の権力者の中に歌を詠んだり、詩を書いたり、能楽や義太夫を稽古したり、武道や修験の修行をしたり、参禅したりする人はほぼゼロです。「文化には価値がない」というのが現代日本のエスタブリッシュメントの合意らしい。
 だから、貧しい大衆が文化資本を獲得して、知性的・感性的に成熟してゆくことを彼らは「領域侵犯」だとはとらえていない。興味ないから。日本のエスタブリッシュメントは自分たち自身が幼児的であるので、市民的成熟に何の価値も認めていない。成熟することの意味を知らない。でも、人間が市民的に成熟を遂げるというのは、それだけ強力な現実変成力を持つようになるということです。いま起きていることを長いタイムスパンの中で考察し、未来を適切に予測できれば、現実を変えることができる。
 カネや権力と違って、文化資本はいくら贈与しても減りません。僕は凱風館で合気道を教えているわけですが、いくら教えても、それで僕の手持ちの文化資本は減るわけではない。むしろ教えることを通じて僕の技術も高まり、知見も深まる。門人が独立して新しい道場を開いても、僕の道場に来る人が減るわけではない。合気道を稽古する人が増えるだけです。別に僕たちはゼロサムの取り合いをしているわけじゃない。ただ稽古を通じて生きる知恵と力を高める人を増やしているだけです。
 たまたま僕は自分の家を公共の道場として提供しているわけですが、それは何でもいいと思います。図書館でも、祠でも、舞台でも、コンサートホールでも何でもいい、それぞれが手持ちの文化資本を贈与したものを原資として「公共」を立ち上げて、文化資本が広く、できるだけ多くの人に行き渡るための拠点とする。僕はこれがこれからの「日本的コミューン主義」の戦い方だと考えています。迂遠な方法と思われるかも知れませんが、「知性と教養を備えた大人の頭数を増やすこと」が最も確実に社会を住みやすくする方法だと僕は信じています。
 21世紀の日本人に課されているのは、太古的な起源を持つ天皇制と近代的な擬制である立憲デモクラシーという「氷炭相容れざるもの」をすり合わせて、共生させるという難問です。これを両立させるのが現代の「君民共治」であると僕は理解しています。そして、この難問に向き合うためには日本国民の市民的成熟が不可欠です。「大人になることこそが革命的なふるまいである」という僕の理屈はわかりにくいと思いますが、「わかりにくいから話を簡単にしてくれ」という要求にずるずる屈服した結果が今の日本の知的惨状である以上、話を簡単にするわけにはゆきません。(インタビュアー杉原悠人)

(6月30日 聞き手・構成 杉原悠人)