植芝盛平と熊野の力

2024-07-14 dimanche

 熊野古道がユネスコの世界遺産に登録されて20年。それを記念して田辺市でシンポジウムが開かれた。私は「合気道開祖植芝盛平翁と熊野の力」という演題で講演を求められた。植芝先生は田辺の人なのである。熊野の海と山に囲まれて育ち、熊野の霊気を鼻腔に満たして成長された(南方熊楠が率いた神社合祀反対運動でも、熊楠のために立ち働いた)。だから先生が完成された合気道に熊野が深いかかわりを持っているのは当然のことである。それでも、合気道の術理と熊野の霊力の関係を説明するということになると容易な業ではない。
 勝負を争わず強弱に拘らず、巧拙や遅速を比較しないという合気道のありようは普通のスポーツや競技武道に親しんでいる人には理解されにくい。でも、これを宗教的な行に準じるものと考えればわかるはずである。大悟解脱をめざす僧が「悟りの到達度」について修行者同士で優劣を競うことはあり得ない。「オレの方がお前より1ポイント悟りに近づいたぜ。勝った」というような人が解脱と無縁の衆生であることは誰でもわかる。武道の修行も本来はそういうもののなである。「勝負を争わず、強弱に拘らず」が基本なのである。相対的な優劣を競う限り我執を去ることができないからである。
 修行とは心身を調え、どこにも詰まりもこわばりもなく、何にも居着かない透明な心身を作り上げることである。そして、それを「超越的な力」に委ねる。「超越的な力」は調った心身を通してのみ発動するからである。
 理屈だけなら誰でも言える。だが、「調う」とはどういう体感なのか、「超越的な力が発動する」とは何が起きることなのか、それは長く稽古を積まなければ分からない(積んでいてもわからない)。確かなのは、それは達成度を数値的に表示できるものではない(だから人と競うことができない)ということである。
 勝敗強弱も巧拙遅速もどれも相対的な優劣を競う心が生み出す幻である。その幻を消すために私たちは修行している。そうして会得された技術が人を殺傷する道具になるはずがない。
 とりあえず合気道の術理を私はそのように説明した。個人の見解だが、それ以外に私には語るべき言葉を持たない。それが熊野の霊力とどう結びつくかは説明する前に時間が尽きた。(『AERA』7月10日)