大学存続の秘策

2024-05-08 mercredi

 大学入試の季節になった。東京にある医療系大学の理事と地方の女子大学の評議員をしているので、この季節になるとそれぞれで入試状況の報告を聞き、生き残れる大学と崖っぷちの大学の格差が年々広がっていることを実感する。
 今のところは定員を満たしている大学も少子化が続けば、遠からず「崖っぷち」に立たされる。せっかく全国津々浦々に良質の教育研究拠点があるのだ。これを市場原理に委ねて統廃合し、教育機関の東京一極集中を放置しておいてよいのだろうか。 
 近代日本において、教育の充実は国家的急務であった。明治末までに東京、京都、仙台、福岡に四つの帝大ができ、最終的には台北、京城を含む九帝大ができた。旧制高校の設立はさらに早く、東京の一高が明治19年。明治41年までに仙台、京都、金沢、熊本、岡山、鹿児島、名古屋に8つの「ナンバースクール」が設立され、以後も都市名を校名とする「ネームスクール」は松江、弘前、水戸から旅順まで19校が設立された。
明治維新以来、1990年代まで、「全国津々浦々に高等教育機関を」という国家目標は疑われたことなかった。その150年来の国家目標が人口動態上の理由であっさりと放棄され、「統廃合は市場に丸投げ」ということになった。市場に委ねておけば、遠からず首都圏周辺に高等教育機関が密集することになる。すでに韓国ではそうなっている。人口の50.5%がソウル周辺に密集する隣国では、釜山はじめ地方都市で大学の廃校が相次いでいる。日本もこのままなら、そのシナリオをなぞることになる。
 しかし、地方が「教育空白地帯」になってしまった日本列島の風景について教育行政の当路者はどれくらい想像力を働かせているのだろうか。あまり真剣に考えているように私には思われない。
 でも、少子化に苦しむ日本の大学に思いがけない「援軍」が期待できそうだという話を聞いた。中国人留学生の大量流入である。
 だいぶ前から文系の大学院は「中国人留学生なしでは定員が埋められない」という状態が続いていた(読者の多くはご存じなかったであろうが)。ここに来て学部への中国人入学者も増えているらしい。高田馬場には中国人向けの進学予備校が軒を接しているという話を東京の人から聞いた。「高田馬場駅前ですれ違う若者たちが話しているのが中国語ばかりなんですよ」とびっくりしていた。
 それを聞いて、ふと日本の大学の少子化対策を思いついた。学部入試を「中国語での受験も可」にするのである。
 中国はご案内の通り、壮絶な受験競争社会である。修士号まで持っていないとホワイトカラー職に就くのさえ難しい。一方、日本は大学も大学院も入りやすい(定員充足に必死なのだから当然である)。比較的容易に学位が取れる。学費は欧米の5分の1(加えて歴史的な円安)。漢字表記が読めて、治安がよくて、どこでも中華料理が食べられて、地理的に近くて、市民的自由が享受できる。富裕層の子どもたちがそれを知って「日本で青春を満喫したい」と思うのも怪しむに足りない。
 今は学部も大学院も日本語受験が必須であるが、「入学後に日本語補習クラスを作って面倒見るから、基礎学力のある人はとりあえず合格させる」という大学があれば、「満喫」系の受験生はわらわらと集まる(はずである)。
 大学の存続と多文化共生社会の創出の「一石二鳥」のアイディアである。何より親日派中国人卒業生を輩出することはわが国の安全保障上大きなアドバンテージをもたらすはずである。問題は文科省が「中国語受験」を許してくれるかどうかだ。(『週刊金曜日』2月7日)