未来について

2024-04-15 lundi

 僕はよく講演に呼ばれます。胸を衝かれるのはどこに行っても聴衆のほとんどが高齢者であることです。若い人をみかけることはほとんどありません。告知が若い人たちの心に届いていないせいだと思います(「高齢者大学」とか「九条の会」だと若い人はタイトル見ただけでスルーするでしょうから)。
 でも、僕が話すのは若い人にこそ聴いて欲しい話なんです。人口減社会において生き残る雇用は何かとか、格差社会においてどうやって弱者のための相互扶助システムを構築するかとか、ポスト資本主義の共同体はどうあるかとか、どちらかと言うと「70歳過ぎの人間にはあまり関係ない話(だって、もうすぐ死ぬから)」で、若い人の未来に切実にかかわることなのに、肝心の若い人は聴きに来てくれません。
 どうしてなんでしょうか。自分たちの未来にあまり興味がないのでしょうか。未来のことを考えると、なんとなく気持ちが沈んで来るから、できるだけ先のことは考えない。そういうことなのかも知れないと思います。
 前に『ドリーム・ハラスメント』という本を読みました。大学生や高校生が「あなたの夢は何ですか?」「10年後の自分はどうなっていると思いますか?」というタイプの質問を受けると気鬱になるという現象を分析したものです。
 不思議ですよね。「夢を語る」というのは、楽しい作業のはずです。でも、そうなっていない。むしろ自分の未来について考えることに苦痛を感じる。それを無理やり言わされるとやむなく「一部上場企業に勤める」とか「公務員になる」とか「TOEICのスコアを上げて留学する」とか答える。でも、それってずいぶん「現実的な夢」じゃないですか。そして、「現実的な夢」ってもう「夢」じゃなくて、単なる「キャリアについての計画」でしょう。夢というのは、本来もっと奔放で、ワイルドで、没論理的なものじゃないんですか。いったいいつからか、「将来計画」のことを「夢」と言い換えるようになったんでしょう。
 それともう一つ、「自分探し」という教育目標も、若い人たちの「未来をみつめる」意欲をずいぶん損なっているような気がします。「自分探し」という言葉が登場したのは1997年のことです。「自分探しの旅を支援する」ことが学校教育の目標に掲げられて、教師も親も子どもたちもその言葉を口にするようになりました。でも、それから後なんだか学校がずいぶん息苦しい場所になったような気がします。
 だって、「自分探し」ですから眼に入るのは「自分」だけです。自分がほんとうは何者かを「まず」知ろうとすることが優先的な教育課題になった。でも、はっきり言いますけれど、これは間違っていますよ。自分が何者であるかは、何かをした後にしか分からないからです。自分が創り上げた「作品」を通じて、事後的に「このような作品を創り上げてしまうような傾向を持つ人」として自分が誰であるかが知れる。そういうものなんです。何かを作ってみるまで、自分が誰かはわからない。まだ何も作っていない段階で、自分は何者か考えても、わかりません。動いてみないとわからない。作品を作った後になって自分がどんな作品を作る人間なのかがわかる。意を決して「えいや」とばかりに未来に身を投じてみないと、自分がほんとうに望んでいたことが何かも、自分がほんとうになりたかったものが何かもわかりません。
 だから、みなさんには未来を見つめて欲しいんです。世界がこれからどうなるのか真剣に考えて欲しい。そこにこれから身を投じるんですからね。(『蛍雪時代』3月号)