居場所がない

2024-04-15 lundi

 年若い友人から「若者の貧困」について話を聞きました。彼は貧困者の救援活動をしている団体の職員をしています。救援拠点には「お腹を減らした若者たち」が集まって炊き出しの前に列を作っている。この時代に「ご飯が食べられない」という若者が何百人もいると聞いて驚きました。その多くは、家はあるが、家にいたくないのだそうです。家には自分の居場所がない。だから外にさまよい出ている。でも、お金がない。結果的に犯罪に巻き込まれて、被害者になったり加害者になったりするリスクに身をさらすことになる。そういう話を聞きました。
 話を聞きながら「居場所がない」というのはどういう意味だろうと思いました。なんかその言い方は不正確じゃないかという気がしたのです。たぶん家でも学校でも「居場所」はあるのです。でも、彼らはそこにいたくない。というのは、そこにいると自分が何者であるか、何をすべきか、何を言うべきか、それがすべて決められていて、それ以外に選択の余地がないから。ものすごく狭いところに閉じ込められていて、息ができないから。それが実は若者たちが「居場所がない」と言うときの実相ではないか。そんな気がしました。
 家庭内でも、学校内でも、親から、教師から、友だちから、自分のいるべき場所も、自分がしてよいことも、自分が口にしてよい言葉も、全部決められていて、そこから一歩も出られない。その「たこつぼ」のようなところにじっとしていれば、ご飯を食べたり、寝たり、授業を受けたりすることは許されるけれど、そこから出ることは許されない。それが「居場所がない」ということの実感ではないか。
 何年か前にアメリカのForeign Affairsという雑誌が日本の大学教育についての特集をしたことがありました。その時に学生たちにインタビューをした時の答えが印象に残っています。学生たちは自分たちの大学生活を三つの形容詞で説明したのです。trapped, suffocating, stuck の三つです。「罠にかかった」「息ができない」「身動きできない」。あまりにインパクトのある形容詞だったので、記憶してしまいました。
 たぶんこのコラムを読んでいる人たちにもこの実感は理解できると思います。日本社会は若者たちにひどく「冷たい」と僕は思います。でも、それは、社会が彼らを放置しているからではない。逆です。生きている気がしなくなるくらいにおせっかいに「狭いところ」に閉じ込めようとしているから、つらいんだと思う。
 前にブラジルで10年暮らしてから日本に戻って来た友だちから、こんな話を聞きました。彼女の子どもが小学校から帰って、「今日、学校で先生に変な質問されたのだけれど、答えられなかった」と言ったそうです。「なんて質問されの?」と訊いたら、「君は将来何になるのか?」と訊かれたのだそうです。ブラジルにいたときは大人からそんなことを訊かれたことが一度もなかったので、意味がわからなかった、と。
 その話を聞いて、僕も小さい時からその質問が嫌いだったことを思い出しました。なぜ大人たちは子どもを早くから「枠」にはめようとするのか、それが不可解でした。
 今は小学校から「キャリアパスポート」なるものを持たせて、最短距離で将来のキャリア形成に迎えるように子どもを「狭いところ」に追い込んでいるようです。ですから、いま子どもたちは「将来の夢は?」と訊かれると、暗い顔をするそうです。当然だと思います。生き物は可動域が広く、次の行動の選択肢が多いところにいると安心し、自由度が失われると不安になる。
 今の日本の教育は子どもたちを生物として弱くするために一生懸命に努力をしているように僕には思われます。(『蛍雪時代』2月号)