来季のテーマは「世界はこれからどうなるのか」です。
似たようなテーマは過去にも掲げたことがあります。気になる事案について、「これからどうなるのか」を考えるということです。
未来予測の精度は、問題になっている事象の前段をどれくらい過去まで遡れるかによって決まります。
今起きている事件について1年前から起きたことだけしか知らないなら、1年後や5年後に何が起こるかはわかりません。でも50年前や100年前からの前段を含んだ「文脈」を知れば、それが選択しうる道筋はある程度見通すことができます。
未来予測をするのは「当てる」ためではありません。不意を衝かれて驚かされないための備えです。
ガザは停戦できるのか、ウクライナ戦争の帰趨はどうなるのか、アメリカはトランプが大統領になったらどうなるのか、中国の人口減と経済停滞はどのような変化をもたらすのか、トルコは帝国の版図を回復できるか、アフリカは中国の「勢力圏」になるのか、ヨーロッパ共同体とNATOは解体するのか・・・どれも熟慮に値する論件です。でも、新聞の解説記事やテレビのニュース解説者の論評くらいではなかなか「文脈」は見えてきません。
ここでいう「世界」にはもちろん日本も含まれます。
日本の「これから」を予測する場合(どのセクターについても)やはりそこにシリアスな問題が起きるに至った「前史」を十分に調べて頂きたいと思います。
以上がテーマについてです。このあとは「ゼミ発表とは何か」というもう少し一般的なことです。
寺子屋ゼミはあくまで「ゼミ」ですから、発表者に求められるのは「モノグラフ(monograph)」の提示です。論点は一つに限定すること。問題を提起し、それについて聴講生たちに十分な情報提供を行い、その論点について私見を述べること。
この間のゼミ発表を見ていると、最後の「私見を述べる」という点の詰めが甘いように思います。
この場合の「私見」というのは別にきわだってオリジナルな意見のことではありません。「私が言わないとたぶん誰も言いそうもないこと」です。必死で頭を絞らなくても、これは出てきます。ふだんだってそれと気づかぬうちにやっていることなんです。
自分が選んだテーマについて、あれこれ調べたり、考えたりしているうちに「ふと思ったこと(たぶん自分以外にはあまり思いつかないこと)」が「私見」です。
もしかすると、みなさんの中には「客観的な事実の摘示にとどめて、私見を述べないこと」が知的に抑制的なふるまいで、「よいこと」だと勘違いしている人がいるかも知れません。それ、違いますよ。「自分以外には誰も言いそうもないこと」だけが学術的な「贈り物」になります。学術というのは集団的な営みです。あらゆる時代のあらゆる人たちがこつこつと積み上げた「煉瓦」でエンドレスに建物を作るようなものです。大きな岩を運んでくる人もいるし、岩と岩の間の「隙間」にぴったりはまる小石を持って来る人もいます。岩の大小はさしあたりどうでもいいんです。自分にしかできない贈り物をすること。それが学術的営為ということです。僕はみなさんに、みなさんだけの「小石」を見つけて欲しいと思います。
知性の活動とは何かということについて、多くの賢人は同じことを言っています。それは「一見何の関係もなさそうな事象の間の関係性を発見すること」です。ある出来事やある言明に触れたときに、「ふと、あることを思い出して、『これって、あれじゃん』と思うこと」。それが人間知性の働きです。
That reminds me of a story 「そういえば、こんな話を思い出した」
これが人間知性の本質だとグレゴリー・ベイトソンは『精神と自然』の中で言っております(そうは言ってないけど、たぶんそう言いたかったんだと思います)
みなさんが、調べものをしているうちに、何かが「ヒット」して、「そういえば・・・」と一つお話を思いつくこと、それが知性の活動です。そのとき思いついた「お話」が「私見」です。
問題はこの主語の that なんです。これが曲者です。
文法的にはこのthat は「それまで前段で述べられたことのうちの何か」なんですけれど、それが「何」であるかは明示されない(本人にもわからない)。それでいいんです。というか、それがいいんです。
あるテーマについて調べようと思った。いろいろ資料を調べているうちに、ふと「これって、あれじゃん」と思った。それを発表してくれればいいんです。いったい何がトリガーになってそんなことを思いついたか、本人にさえよくわからないこと、それが「誰も言いそうもないこと」であり、実は余人を以ては代え難いみなさんの「オリジナルな知見」なんです。
来季も寺子屋ゼミで楽しくやりましょう。
(2024-02-27 17:50)