内田先生が、考えていらっしゃる「本の未来」についてお聞きしたいと思います。
今まで人間が創り上げてきた「text-based」のものとしては「本」にまさるものはないでしょ。人間が創り出したあらゆる道具はどれも身体実感に裏づけられているように、紙の本の形を見ても、人間の身体実感に基づいて進化してきた「完全体」だと思われます。
しかしながら、今のところ映画やYoutubeなどをはじめ、さまざまなコンテンツが「本」に取って代わりつつありますね。それで、多くの人は「紙の本」はもう斜陽産業だと信じ込んでいるようです。
このような厳しい状況で、これからの「本の未来」がどう繰り広げられるのか、先生のご意見を聞かせていただきたいです。
僕は本というかたちはなくなることはないと思います。やはりこれは人類の偉大な発明です。情報媒体としてこれにまさるものは存在しないと思います。
情報検索の仕方にはランダム・アクセス(random access)とシーケンシャル・アクセス(sequential access)の二種類があります。好きなところにいきなりアクセスできるのが「ランダム」、最初から順番に「当たる」まで検索するのが「シーケンシャル」。紙の本はランダム・アクセスとシーケンシャル・アクセスの両方が可能な媒体です。最初から頁をめくって最後まで読んでもいいし、読みたいところをぱらりを開いてそこだけ読んでもいい。
とくに紙の本はランダム・アクセスにすぐれています。別に頁数を覚えていなくても、「北側の書架の上の方にある赤い表紙で、真ん中へんの、頁の端が折り返してあって、何度も読んだので手垢がついてるところ」というようなアバウトな検索が紙の本の場合は可能です。
もし、僕の蔵書(1万冊ちょっと)がぜんぶ電子書籍化されていたら、書斎は広々として気分良いでしょうし、本を探す手間もかからないとは思いますけれど、「便利だな~」と言えるのは平時だけであって、「何か災害があった時」に電子書籍ではどうにもなりません。
僕が「本はすごい」と思うようになったきっかけは1995年の震災のときです。マンションが傾くほどの被災状況でしたので、家具はほとんど倒れ、当然本棚も倒れました。スチール製の本棚はぐにゃぐにゃにねじまがってもう本棚としては使えなくなりました(全部棄てました)。でも、本は無事なんです。表紙が傷んだものはありましたけれど、製本がばらけたり、破れたりして読めなくなったという本は数千冊の蔵書のうち一冊もありませんでした。それに、だいたい「並べていた通りに床に落ちていた」ので、探している本はすぐに見つかりましたし、新しく本棚を買ってからもとに戻す作業も簡単でした。
大学の研究室の本棚は作り付けだったので、本棚は壁に貼りついていて、本だけが床に散乱していました。これも数時間でもとに戻すことができました。
うちはさいわいすぐに電気が通じて、灯りが使えたのですが、かりに電気が通じてなくても、本は昼間なら外光だけで読めます。これが電子書籍だったら、充電が切れたところで「おしまい」です。電気が通じるまで読めない。もし、長期にわたって停電状態が続くなら、インフラが復活するまで、数週間、数か月、「本なし」で暮らさないといけない。僕のような「活字がないと生きた心地がしない」人間にとって、それはまことにつらいです。
そのときに紙の本というのはほんとうに「危機耐性が高いな」としみじみ思いました。洪水がきて、本がびしょぬれになっても、外で乾かせば、読めるようになる。さすがに火事で燃えたらおしまいですけれど、それ以外の自然災害に対しては紙の本は強い。
便利さということで言えば、電子書籍の方がたしかに便利です。僕も電車の中で本を読むときは電子書籍です。重度の活字中毒なので、以前は旅に行く時には、途中で読む本がなくなったらどうしようと思って「予備の本」をニ三冊鞄に入れて旅をしたものですけれども、電子なら携帯で読めますから、荷物はずいぶん軽くなりました。これはすごく助かりました。それでも、うっかり充電器を忘れてしまうと、電気が切れたところで読めなくなってしまう。
電子書籍は平時仕様です。それは「非常時には使えない」ということです。でも、自然災害も、戦争も、テロや内乱も、いつ起こるかわかりません。そのときに「本が読めない状態」が長期にわたって続くということに、僕は耐えられません。
そういう人間は結局紙の本を手離さないと思います。
それに電子書籍は手作りすることができませんが、紙の本なら疑似的なものであれば、自分で作れる。白い紙に鉛筆かペンで文字を書いて、それを綴じれば、「本のようなもの」は作れる。もうほんとに何も読むものがなくなったら、僕はたぶん自分で本を書きます。そして、それを読みます。他の人に読んでもらうこともできる。
その気になれば、手作りできるというのも、紙の本の最大の強みでしょう。
今から60年ほど前、中学生の頃、僕はガリ版を切って、自分用の小さな印刷機で同人誌を作って、友だちに配布していました。自分が読みたいけれども、誰も書いてくれないし、どこにも売っていないような本は自分で作るしかないというのは、思えば、13歳くらいからあと、僕の基本姿勢でした。
大学生のときは政治的なパンフレットをたくさん書きました。これもガリ版刷りです(ということは停電しても平気ということです)。ときにはずいぶん長いものを書きました。
大学を出て10年くらい後に、親友の平川君の家に遊びに行ったときに、彼が押し入れの奥から黄ばんだ紙束を取り出してきて、「これ書いたの内田だろ」と訊いたことがありました。
読んでみたら、1972年くらいの東大駒場の学内の学生運動の分析がなされ、そこでこれからどのような政治潮流を創り出すべきかが書いてありました。遠い昔のことなので、そこに書かれていることの意味はもうさっぱり分かりませんでしたけれど、十行ほど読んだところで「これを書いたのはオレだ」ということがわかりました。ナントカ委員会という名だけがあって、個人名は書いてなかったんですけれど、わかりました。たかだか100部くらいしか刷らなかったのですけれど、それが人の手から手へと渡って、早稲田大学のキャンパスで平川君の手に落ちた。
紙の力って、けっこうたいしたものだなと思いました。ふつうはそんなもの、もらってもすぐにゴミ箱に捨ててしまうんですけれど、読んで「これ、おもしろいな」と思った人がいて、「これ、読んでみろよ」と言う言葉と一緒に人から人へと手渡しされて、東京都内を20キロくらい移動して、平川君に届いた。
そういうことはたぶん電子書籍やネット上に書かれたことについては、あまり起こらないような気がします。10年以上前に書かれたネットテクストを誰かがだいじに保存しておいて、友だちに見せるというようなことって、たぶんないような気がします。でも、紙だとある。
先日、学生時代に平川君といっしょに出していた同人誌「聖風化祭」のバックナンバーを友だちが「本棚の整理をしたら出て来たよ」と言ってもってきてくれました。50年前に出したものです。よくそんなものが残っていたなあと思います。紙の本の保存力はすごいと感心しました。
文字を読むメディアにはいろいろな条件が求められると思います。いまはほとんどの人が「利便性」と「価格」だけでそのメディアの優劣を決めています。でも、メディアにとって、ほんとうにたいせつなのは、「風雪に耐えて生き延びることができる」と「誰でもその気になれば手作りできる」ことの二点ではないかと思います。その点で紙の本にまさるものを人類はまだ発明していないと思います。
(2024-01-30 16:13)