朴先生からのご質問シリーズ「言語の生成について」

2024-01-24 mercredi

 こんにちは。
 内田先生の「原理主義」についてのお応え楽しく拝読いたしました。
 そういえば、『こんな日本でよかったね』というご著作で、内田先生はこう言われています。

「だから、『原理主義はダメだ』というようなことを機能主義者は決して言わない。
『原理主義はダメだ』というのはもうひとつの原理主義である。
だって『原理主義者』は私たちにとっての『なまもの』だからだ。」(p.97)

 この文章をはじめて読んだとき、実にもっともでかつ筋道の通った言明だと思いました。あたためて感謝申し上げます。
 さて、今回の「原理主義」についてのお答えの中で、内田先生はこう書かれています。

「僕はとにかく『査定されること』が大嫌いだったからです。できあいの『ものさし』をあてがわれて、査定されて、格付けされて、点数をつけられることが僕は骨の髄から嫌いなのです。」

 この話(特に「階級意識があるかどうか」「革命的かどうか」)を拝読し、こんは話を思い出しました。
「エスノメソドロジー( ethnomethodology 」という社会学の学知があります。この「エスノメソドロジー」はアメリカの社会学者であるハロルド・ガーフィンケル(Harold Garfinkel:1917~2011)という人が創り上げたものです。
 このいわゆる新しい学知を創り上げた「ハロルド・ガーフィンケル」のストーリが実に面白いです。しばらく付き合っていただければと思います。
 ガーフィンケルはハーバード大学の博士課程(社会学)の学生でありながら、小説を一本書いています。その小説は『カラートラブル』というタイトルの小説ですが、この『カラートラブル』のあらすじはつぎのようなものです。

『カラートラブル』は一九四〇年代のアメリカ南部のジムクロウ(黒人差別) を描いた作品である。物語は、一九四〇年三月二三日の夕方、ワシントンDC発ノースカロライナ州ダーラム行のバスが、バージニア州ピータースバーグのバスデポに到着したところから始まる。若い黒人のカップルが白人席のすぐ後ろの空いた席に移動したのを、 運転手がみとがめる。 運転手は、黒人は後ろから順に詰めて座らなければならないというバージニア州の人種隔離法をたてに、ふたりに後ろの席に移るように言う。ニューヨークから来たそのカップルのうち女性のほう、アリス・ マクビーンはそれを拒否する。運転手はふたりの警官を呼んでくる。警官と運転手はかわるがわるふたりに後ろに移動するように言うが、アリスは、病気なのでタイヤの上の座席には座れないこと、さらにその座席が壊れていること、 外で待っている黒人の乗客たちが乗れば、空いている後ろの席が埋まり、結局同じであること、憲法が平等な権利を保証していることなどを挙げて反論する。
 警官は結局ふたりを逮捕することをあきらめる。 運転手はふたりに一列だけ後ろに下がることで妥協しようともちかける。座席を直すことを条件にアリスもそれを受けいれる。運転手が座席を直し、これで一件落着と思われたそのとき、アリスは運 転手にさらに謝罪を要求する。 運転手は怒り、ふたたび警官を呼ぶ。今度は警官は即座にふたりを逮捕する。アリスは気を失って倒れ、バスからひきずりおろされる。ふたりを乗せたパトロールワゴンが走り去り、バスも乗客を乗せ、 なにごともなかったかのようにふたたび走り出す。この間約二時間の車内の様子を、ガーフィンケルは、アリスと運転手や警官のやりとりや、他の乗客たちの反応を中心に、 細密に描写している。

 その当時のアメリカの小説界から高い評価を得たにもかかわらず、ガーフィンケルは、その後、文学というジャンルに属する作品を発表しませんでした。 一九四二年にノースカロライナ大学で修士号を得ると、空軍で兵役につき、四六年に退役後、ハーバード大学で社会学の研究を再開します。

 僕がこの『カラートラブル』において注目すべき点だと思っているのは、 この物語が、休暇からチャペル・ヒル(ダーラム近郊のノースカロライナ大学の所在地)に戻る途中の、社会学の学生である「わたし」によって語られていることです。 バスのなかで遭遇した事件をいわゆる「知覚の衝突」として物語っているのは、この「わたし」 である。だが、この「わたし」は社会学者である自分自身を懐疑的な目でながめています。アリスが逮捕されて、ふたたびバスが走りだしたあと、 この社会学者は後ろの席の少女に向かって、「今度だれかが君にぼくたちの『階級なき社会』についてしゃべったら、 いま見たことを話して、どう解釈するか聞いてみてごらん」と話しかける。このキザで陳腐な批評が「深遠な洞察」と呼ばれるとき、この社会学者は戯画化されていると考えられなければならない。そして、社会学者としての自分自身に違和感をもち、距離を置いている、この社会学者こそガーフィンケル自身でありました。
 ガーフィンケルが社会学者としての自分に距離を置いているのは、自分が目撃した事件を当時の社会学のできあいの言葉でうまく表現できなかったからです。 社会学の学生であるガーフィンケルの頭に最初に浮かんだ言葉は「階級」であった。だが、ガーフインケルがこの事件のなかに見たのは 実は「利害の衝突」ではなく、「知覚の衝突」でありました。 ガーフィンケルは、のちに彼が「世界の複数性」と呼ぶことになる問題を表現することのできる社会学の言葉をこの時点ではまだもっていかったわけです。
 この事件が短編小説という形で発表されたののはこのためだと考えられます。 『カラートラブル』は「世界の複数性」という問題を文学的な形式で表現したものです。そして、『カラートラブル』において「知覚の衝突」 として描かれた問題を表現しうるような「新しい社会学の言葉」をみいだすことが、こののちこの若い社会学者にとっての喫緊の課題となりました。
 ガーフィンケルはその後、すぐに陳腐化しそうな定型句(たとえば、「階級なき社会」とか)にすがらずに、ガーフィンケル個人の身体実感に裏づけられてふり絞られて出て来る「言葉」を探し求めて、苦労を重ね、長い道のりを歩んできたあげく「エスノメソドロジー」というあらたな学知を創り上げることになりました。

 内田先生がいままで創り上げた「言葉」などを拝見すると、たとえば『ひとりで生きられないのも芸のうち』や『邪悪なものの鎮め方』や「民主主義がちゃんと機能するかどうかを決めるのは、制度設計の出来不出来よりも国民の成熟度です。国民の中の『まっとうな大人』の頭数があるラインを下回ると、民主主義は簡単に機能不全に陥ります。現代日本がそうです」などのような「内田先生が語らなければ、他に内田先生と同じことを語る人がいないこと」だけを選択的に語ってこられたと思います。
 これから第一番目の質問です。内田先生ご自身の身体実感に基づいて創り上げられた言葉がどうやって形になるのか、そのプロセスといいましょうか、メカニズムをぜひ教えて頂ければと思います。

 第二番目の質問は、内田先生が学者としていままで創り上げられた「学知」などがありましたら教えて頂ければ幸いです。
 
 こんにちは。そろそろこの「Q&A」シリーズも終わりですね。だんだん質問が難しくなってきました。自分自身の頭の中の働きがどういうふうになっているかを語れというんですからね・・・
 第一の質問にお答えします。僕は物を書く時に一番たいせつにしていることは「正直」です。頭の中に浮かんだアイディアをできるだけ加工しないで、単純化したり、定型化したりしないで、「そのまま」出力する。
 未加工のアイディアが文字列になって出力されて、ディスプレイに表示される。それを見て「なるほど、私はこんなことを考えているのか」ということを知る。その文字列に「意味がよくわからない言葉」や「はじめて読んだ言葉」が含有されている率が高ければ高いほど、そのテクストが僕に与える愉悦は大きなものになります。それは「生成」があったことの証拠だからです。「創造」のしるしだからです。
 さあ、これからこのままアイディアを「走らせたら」、次はどんな文字列に変換されるのか。それを読みたい。「走らせ続ける」ためには、できるだけ「既知」に回収しないようにしなければなりません。
「既知の定型」という「罠」はそこらじゅうに張り巡らされています。もちろん「既知の定型」と言っても、もとはと言えば僕が自分で考えだしたものですから、「借り物」ではありません。「オリジナル」な知見なんです。でも、「既製品」なんです。
 そして、「つねづね私が言っていること」って、吸引力が強いんです。だから、出来立ての、ふらふらした、星雲状のアイディアは、簡単に「つねづね私が言っていること」の引力圏にひきずりこまれてしまう。そして、「いつもの話」の一エピソードとか、一傍証とか、そういう付随的な地位に釘付けされてしまいます。
 それをどうやって避けるか。それが生まれたばかりのアイディアを「走らせる」ためには緊急な技術的課題です。
 こんな風景を想像してください。宇宙を航行している小さな宇宙船があるとします。これが「生まれたばかりのアイディア」です。そして目の前の宇宙空間にはあちこちに「つねづね私が言っていること」という「星」があります。その近くを通ると星の強い引力にひきずられる。その力に負けると、「いつもの話」に回収されて、星の重量にちょっとだけ加算される。
 宇宙船としては、なんとかこの引力に抗して飛び続けたい。うまい具合に星の引力圏をたくみに逃れて、さらに宇宙の先へ進めたとしたます。もう引き止めるほど強い引力を発揮できる星がない。その時にふと振り返ると、宇宙船の「航跡」が「生まれてはじめてする話」として残されている。そして、「おお、一つ新しいアイディアがかたちになったぞ」と喜ぶことになります。
 そんなふうにして、「まっさらの、手つかずの、生まれたばかりのアイディア」をそっと走らせること、できるだけ長い距離を走らせることが、書く人間にとっての最優先課題となります。
 さて、どうやってそれを遂行するか。
 そのために一番たいせつなのは「正直」ということだと僕は思っています。
 僕が「正直」というのは、他人に嘘をつかないことではなくて、自分に嘘をつかないことです
 僕は他人にはときどき嘘をつきます。嘘をついた方がその人のためだと思うことってありますからね。ひどい書き物を見せられて、「どうでしょうか?」と訊かれて困ることってありますよね。僕はそういうときは「いや、これは、ひどい。あんた才能ないよ。もう書くの止めた方がいいよ」なんて絶対言いません。そんなひどいことを言われたら、その人は「じゃあ、もう二度と書かない」と絶望して筆を折ってしまうかも知れないからです。それよりは「いいですね。うん、なんかこれから開花しそうな豊かな才能の気配を感じるなあ」くらいのことを言ってあげたほうがいい。そのせいでこの人が次はいいものを書く可能性は(ごくごくわずかですが)増します。彼がこのあとよき作物を創造した場合、その受益者は(理論上は)人類全体です。だったら、「いまはダメだけれど、これから開花するかもしれない才能」にはとりあえず通りすがりに「水やり」くらいのことはしてあげたっていいじゃないですか。誰も、それで損をするわけじゃないんですから。だから、他人にはときどき「嘘」をつきます。
 ただ、自分に対しては絶対に正直でなければいけません。文字列として出力してみたら「いまいち」だと思ったら容赦なく消去する。これはもう容赦なくやらなければなりません。ばさっと何千字も消すこともあります。このときに自分に甘くしてはいけません。
 
 数日前に、僕の本のゲラが届きました。あちこちの媒体に書いたものや、ブログに上げた文章などのコンピレーション本です。途中まではすらすらと読んで、ところどころ手を入れていたのですけれど、ある頁になっていきなり足が止まってしまいました。
 たしかにそこには僕が「いかにも書きそうなこと」が書いてありました。たしかにどこかでそんなことを話した記憶もある。でも、これは僕の文章じゃない。他人の文章なんです。僕はこんなふうには書かない。
 いったいどこから採って来た文章だろうと思って検索したら、講演録が元でした。僕が90分くらいの講演でした話を5つくらいに区切って、そうやって作った文章でした。だから、コンテンツはたしかに僕のものなんです。僕がつねづね主張していることが書いてある。でも、文体が違うんです。読んでいて、呼吸が合わない。こんなリズムの文章を僕は書かない。こんな単語は使わない。読んでいて気持ちが悪くなりました。
 他人の文章だったら、そんなことは起きません。「おお、オレとよく似た意見のやつがいるな」と思って、うれしくなるかも知れない。でも、自分の書いたものだと耐えられない。結局、50頁くらい消して、全部書き直しました。
 その時に、「僕が書きたいこと」ってほんとうは何なんだろうと考えました。「学びとは何か」とか「図書館の機能」とか「中間共同体としての凱風館」とか、そこに書かれていることは、僕の日頃の主張のままなんです。でも、そこに印字されていた文章は「僕が書きたいこと」じゃなかった。
 ということは、「僕が書きたいこと」とか、さきほどから「アイディア」とか言っていることって、それをどういう文体で叙するかという「スタイル」も込みだということになります。あるリズムやある音韻でないと、自分の言葉のような気がしない。だから、全部書き直した。
 なるほど、これが「正直」ということなのか。そう思いました。
 別に僕の熱心な読者だって(例えば朴先生でも)、あの文章を読んで「内田のものではない」とは感じないと思います。「なんかちょっとリズムがいつもと違うな。風邪でもひいてたのかしら」くらいの印象は持つでしょうけれど、「内田が書いていない」とまでは思わないでしょう。
 だから、「正直」っていうのは、外的な規範じゃないんです。自分で自分に対して課すものなんです。自分が正直かどうかを判定できるのは自分しかいない。
 そして、正直であることを止めたら、もう「ものを書く人間」を名乗る資格はないと思います。

 たぶんこの講演録の書き換えをした編集者は、これまでも「インタビューの文字起こし」とか「講演の文字起こし」とかあるいは著者の「語り下ろし」で本を作ったことがあった人だと思います。そして、これまで彼が作った「下原稿」を多くの書き手は、少し朱を入れるだけで、そのまま通した。だから、彼は内容さえきちんと合っていれば、「リズム」だとか「音韻」なんて副次的な、装飾的なことにすぎないと思っていたのでしょう。
 でも、僕にとっては、そこに文章の「命」がある。「アイディア」というのは単なる概念単体じゃなくて、それを表わすために動員される無数の言語資源込みでしか成立しないんです。
 だから、改行をするかしないか、漢字で書くかひらかなで書くか、ここで文を切るか、もう少し息をつめて続けるか。そういうのが僕にとってはものを書く上で死活的に重要なことなんです。
 もう20年くらい前のことですけれど、一度だけ「ゴーストライター」が書いた本のゲラが届いたことがあります。それまで僕の書いたものを「切り貼り」して一冊にした本でした。だから、僕の本と言えば、僕の本なのです。最初は気づかずにゲラを読んでいたのですけれど、途中で「これは僕が書いたものじゃない」とわかりました。気持ち悪くなって、それ以上読み進めることができませんでした。申し訳ないけれど、そのゲラは棄てて、同じタイトルでぜんぜん違う本をゼロから書きました。
 そういうタイプの「正直」さがどうして書く上で死活的にたいせつなことなのか、やはりまだうまく説明できません。とにかく僕にわかるのは、正直であることを止めたら、僕はたぶん何も書けなくなるだろうということです。