『コモンの再生』文庫版のためのまえがき

2024-01-17 mercredi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
『コモンの再生』文春文庫版をお手に取ってくださってありがとうございます。
 単行本は2021年刊行。『GQ』という月刊誌に2016年7月から2020年6月まで連載していた「人生相談」コーナーをまとめたものです。ですから、最初のものはもう今から8年近く前の話になります。東京五輪もコロナもまだ始まっていない頃の話です。
「そんな昔の話、今ごろ読んで面白いんですか?」という疑問が当然湧き上がると思います。湧き上がって当然です。でも、読んでみたら割と面白いんです。
 どうして時事性をも持たない文章がまだ読むに堪えるのか? それについて私見を申し述べたいと思います。


 時事的なトピックを扱った文章が何年にもわたってリーダブルであるためには、何が必要か? そこで書かれていた未来予測が当たることでしょうか。それもあると思います。本文を読めばお分かりになりますが、僕がこの中で書いていることで「大外れ」したことは「安倍政権はもうすぐ終わる」と予言してからさらに5年以上政権が続いたことくらいで、あとはだいたい当たりました。
 でも、「予測が当たった」だけでは、リーダビリティを構成するには足りません。だって、その後何が起きたのか、みなさんはもうご存知なわけですから、僕の予測が当たろうが外れようが「あらそう」でスルーできます。
 それに、だいたい政治経済や国際関係については、どんな専門家でも、ほとんどの予測は外れるんです。「人知を以ては測りがたい想定外のこと」がしばしば起きるんですから、仕方がありません。例えば、2019年初に「近いうちに新型ウイルスによるパンデミックが起きる」と予測していた人も、2022年初にロシアによるウクライナ侵攻があると予測していた人も、2023年秋にハマスのテロからイスラエルによるガザ侵攻とパレスチナ人の「ジェノサイド」が始まると予測していた人も、たぶんほとんどいなかったはずです。
 それでも、起きた後になると「たしかにこんなことが起きても不思議はなかった」と僕たちは思います。「なるほど、起きてもよかったことが起きたのだ」と思います。
 それだったら、「これから起きてもよいこと」についてのできるだけ長大なリストを作ることの方が「これから必ずこうなる」と断定してみせるよりも実効的ではないか。ある時期からそんなふうに考えるようになりました。
 僕は武道家ですから、「不意を衝かれる」ということがあっては困る。不意を衝かれて、びっくりして腰を抜かすというような事態は避けたい。まあ、武道家でなくても、誰でもそうだと思いますけれど。不意を衝かれると生物は一気に生命力が減殺します。場合によっては死んでしまうこともある。
 ですから、僕は「起きるかも知れない最悪の事態」についてできるだけ幅広く想像力をめぐらすようにしています。例えば、寝る前にパジャマに着替える時には「夜中にゲシュタポが来て拘引されるときに、この恰好でオッケーだろうか?」というようなことを考えます。ゲシュタポなんか日本にないのに。エレベーターに乗る時には、「エレベーターが故障して数時間閉じ込められる場合」に備えて、事前にトイレに行くようにしています。そういうふうにいつも「最悪の事態」を考えています。
 こういう想像力の使い方をする人は日本社会にはあまりいません。日本ではどちらかと言うと「起こり得る最良の事態」を想像して、「そうすれば経済波及効果が数兆円」とか「世界中から『日本スゴイ』と絶賛の声」とか、そういうおめでたい話が好まれます。かつて大日本帝国戦争指導部が陸軍参謀の上げてくる「すべての作戦が成功すれば皇軍大勝利」というタイプの楽観的な戦況予測だけを採用して、そのせいで致命的な敗北を喫したことを日本人は本気では反省していない。僕にはそんなふうに見えます。
 現に今も、五輪だ、万博だ、カジノだ、リニアだ、原発だ、と「一発当たれば大儲け」というタイプの話にはみんな夢中になるけれども、そのプロジェクトが失敗した場合に「被害を最小化するためにはどういう手立てを講ずればいいか」という問いは誰も発しません。プロジェクト会議の最中に「失敗した場合の被害の最小化」について話し始めるメンバーはたぶん全員から憎しみに満ちたまなざしを向けられて「縁起でもないことを言うな」と一喝されて黙らされるはずです。
 でも、その結果、今の日本社会では誰も「起きる可能性のある最悪の事態」について語らなくなったし、想像さえしなくなった。
 そう強い口調で断言できるのは、「リスクヘッジ」も「フェイルセーフ」も「レジリエンス」も日本語の語彙にないからです。
 日本は伝統的に外来語を漢字二字の熟語にすることで日本語の語彙(ということは日本人の意識の中に)取り込んできました。「個人」も「社会」も「科学」も「哲学」も明治時代の先人たちが訳語を作って日本語に取り入れたのです。でも、「リスクヘッジ(risk hedge)」って訳語がないでしょう?「危険が発生する確率や内容を予測し、それを回避し、被害を最小限にとどめる対策を立てて備えておくこと」です。こんな大事なことなんですから、漢字二字の訳語を作ってもいいと思いませんか?「避危」とか「抑難」とかじゃ意味がわからないというのなら、いつもやっているようにカタカナ四語に短縮する手があります。これまでだって「デジカメ」とか「ワープロ」とか「プログレ」とか「ポリコレ」とか「セクハラ」とか、外来の概念はカタカナ四文字に縮約することで日本語の語彙に登録してきたじゃないですか。でも、「リスヘジ」って言わないですよね。
「フェールセイフ(fail-safe)」も同じです。これは機械が制御不能になった時に「安全な側」で機能停止するように設計することです。線路の遮断機は停電して止まる時には必ず「下に下がる」ように設計してあります。自動車のエンジンは壊れた時には必ず「回転数が下がる」ように設計してあります。機械製造については「フェイルセーフ」は世界標準ですから日本のメーカーでもそうしていると思いますけれど、それを社会的現実に適用するということはしていない。
「レジリエンス(resilience)」は工学的には歪められたり曲げらりたりした素材が原型に復する力のことですが、ひろく心理学的には「危険な状況に直面しても正常な平衡状態を維持することができる能力」として用いられています。でも、適切な日本語訳がない。「復元力」「耐久力」「再起力」でもいいんですけれど、ニュアンスが伝わらない。それなら四文字略語にすればいいのだけれど「レジリエ」とか「レジエン」とかいう略し方を僕は耳にしたことがありません。
 訳語がない、略語がないというのは、日本人が無意識のうちに「そんな概念は土着させない」と断固として拒否しているということです。僕はそう思います。僕の個人的仮説に過ぎませんから、いかなるエビデンスもありませんが(そう言えば「エビデンス」も訳語・略語がない概念ですね)。

 つまり、日本社会には「起こり得る最悪の事態」について想像し、それがもたらす被害を最小化するための具体的な手立てを準備しておくという知的習慣がない。それも無意識的な仕方でそのような知的習慣を拒絶している。そして、このかなり特異な心理機制が日本社会の脆弱性を高めているように僕には思われるのです。
 僕は一日本人として、この国がいつまでも栄えていて欲しい、国民が愉快に暮らして行ってもらいたいと願っています。ですから、不意を衝かれて「突然死」するような目には遭わせたくない。そのためにも、できるだけ網羅的かつ具体的に「起こり得る最悪の事態」について想像するようにする。「縁起の悪い話をするな」とか「お前のような敗北主義者がむしろ敗北を呼び込むのだ」というご批判はあえて甘受する覚悟です。

 長くなり過ぎましたので、もう「まえがき」は終わりにしますけれど、時事的な書き物が長くリーダビリティを保つためにはどんなファクターが必要なのかという問いをめぐってここまで書いてきました。僕の仮説は、「未来について起こり得るさまざまなシナリオについて想像をめぐらせ、どうすれば被害を最小化できるかを思量する態度」は間違いなくリーダビリティの重要なファクターだというものです。ジョージ・オーウェルの『1984』も、レイ・ブラッドベリの『華氏451』も、リドリー・スコットの『エイリアン』も、スティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』も、ジョージ・ミラーの『マッドマックス』も、そういうふうに見れば、「そういう作品」でしょ?

 最後になりましたが、編集の労をとってくださった文藝春秋の池延朋子さんのご尽力と、ボーナストラックの対談収録をご快諾くださった斎藤幸平さんに感謝申し上げます。