韓国で出る次の本は「Q&A本」になる。いろいろな質問を受けて、私が回答するのである。すでに25くらいの質問に答えたので、そろそろ本ができる。これは元日に届いた朴東燮先生からの質問と私の答えである。
-内田先生の本の中で「街場の現代思想」「街場の読書論」「街場の文体論」「街場の共同体論」「街場の教育論」はもう韓国語版が出ています。この韓国語版の「街場シリーズ」の中で「街場の教育論」と「街場の読書論」は僕が訳したものです。
それで、韓国の出版界とメディアでは、内田先生のことを「コリの思想家」と呼んでいます。 ここでいう韓国語の「コリ」というのは、『通り、道、街、ストリート』の意味の固有語です。
しかし、僕は「内田樹論第二部」という本で「街場」を単に韓国語の「コリ」と訳してはいけないという議論をしています。つまり、話はそれほど単純ではないので「街場」を訳さずにそのまま使うことを主張しています。ということは、「生活者の実感」のステレオタイプにも、「専門的知見」のステレオタイプにも回収されない、「ふつうの人の、ふつうの生活実感」に基礎づけられた平明な批評の思想がこの「街場」という言葉には込められていると思っているからです。
日本語の「ことば」とは本来、「こと」の「端(は)」だということをどこかで読んだことがあります。つまり、ことばは、「事実」に比べていつも不完全であり、なお事実に遅れる宿命にあるということでしょうね。
しかし、先生の「ことばづかい」を拝読していると、ことばは「こと」を引き起こす力があるということに気づかされます。ことばはこのとき、物事が始まるきっかけ、つまり「『端』を発する」「『端』を開く」役割もしますよね。
僕はこの「街場」ということばにいまだかつてない世界の「『端』(いとぐち)」を示してくれる力がひそんでいると思っているので、あえて韓国語訳しないほうがいいと思います。
もう一つ、僕が内田先生の「街場」という言葉を韓国語訳しないまま使う理由は、思考は、おのれにないものをこそ、他の思考から学びうるのであり、そのことは必ずしもそのおのれのないものを我が物のとすることとは限らないということを内田先生の「レヴィナス伝道活動」から学んだからです。
言い換えると、思考が真に学びうるのは、決してわがものとはなしえないものに、それを我がものとなしえないまま対峙しつづけることを通してのみ、なのだとしみじみ感じたからです。
僕の考えとしては、内田先生は普段から「生活者」と「専門家」の間にいつづけられる言葉、往復運動ができる言葉を必死になって見つけようとされているような気がします。その営みが「街場の言葉」の源泉になっているのではないかと思われます。
それは、この間ご恵投いただきました内田先生の最新刊『街場の米中論』を拝読してあらためて実感いたしました。
この機会に韓国読者向けに内田先生が考えていらっしゃる「街場」という言葉の意味あいを教えていただければ幸いです。
内田 こんにちは。今回は「街場」の意味ですね。ううむ、これは僕に訊かれても困るんです。というのは、この言葉を最初に僕の書き物のために選んだのは江弘毅さんという編集者だからです。2002年か3年に、彼が当時編集長をしていた関西の情報誌『Meets Regional』に連載コラムを寄稿することになりました。そのときに彼がつけたタイトルが「街場の現代思想」でした。かっこいいタイトルをつけるなと感心しました。「街場」というのは江さんの愛用する言葉でした。
たぶん江さんは知識人と市井の人が行き交う空間のことを「街場」と呼んでいたのだと思います。そして、編集者の仕事は、知識人の専門的知見を噛み砕いて市井に伝え、同時に生活者のリアルな実感を学術の世界に繰り込むことである、と。そういう力動的な往還の場を創り出すことが編集者の仕事だと思っていた。そのような場においてのみ「生きた言葉」は生まれるはずだと思っていた。
その通りだと思います。生活者の実感が「空疎」だとみなしたものは、学術的にどれほど厳密であっても、現実を変成する力を持ちません。逆に、世界のどこでも通用するような汎通的な知の層に達し得ない生活実感は、結局そのごく狭い地域的限界から出ることができない。
同じことを裏返して言えば、生活者がほんとうに自分の生活にしっかり根を下ろしていれば、学術的に汎用性の高い知見に触れたときに、それが初めて聴く言葉でも決して「空疎」だとは感じないはずです。また、生活者が(言語や親族や交換について)いのちがけで守ろうとする倫理や規矩があるとすれば、それはどこかで「暗黙知の次元」に通じている。そういうことです。
江さんと最初にお会いしたころ、よく「ウチダ先生の話は街場でも通りますわ」という言い方をしてくれました。「街場でも通る」というのは、江さんの「最高のほめ言葉」でした。僕はそう言ってもらったことをとてもうれしく思いました。そして、自分のいるべき場所はそこだと確信しました。
『寝ながら学べる構造主義』というのが、僕の「街場的」な書き物のデビュー作でした。レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー、バルトらフランスの構造主義者たちの知見を、日本の高校生でもわかるように噛み砕いて説明したものです。「こういうもの」が絶対に必要だということについては確信がありました。それまでなかったからです。それまで書かれた構造主義の入門書は、学者が「素人相手」に、話をはしょって、ざっと概説するという感じのもので、どこかに読者を見下したところがありました。事実、そういうタイプの本のことを学者たちは平気で「啓蒙書」と呼んでいましたから。「啓蒙」って「蒙を啓く」(愚鈍な人間を開化する)という意味ですからね。すごいです。
僕はそういうものを書く気はありませんでした。高校生でも、彼らが生活者としてしっかり根をおろしていれば、構造主義の本質的なところは理解できるはずだと思っていました。だって、それは言語と親族と交換についての深い知見だったからです。
高校生だって、言語を操るし、家族とともに生きているし、経済活動にかかわっています。素材は彼ら自身の経験のなかに豊かに存在する。ふだん、ふとした機会に「生きた言葉」と「死んだ言葉」の違いがあることに気づいたり、家族であるというのはある種の「役割演技」をすることだと気づいたり、贈り物をもらったあとに何も「お返し」をしないと気持ちが片づかないとしたら、彼らは「人類の暗黙知」にアクセスする回路にすでに手が届いていることになります。だったら、別に「啓蒙」する必要なんかない。高校生自身がおのれの生活実感の深層に向けて垂直に掘ってゆけばよい。そのための作業の指針になるものを書きたいと思っていました。
たぶん、そういうふうに読者の主体的なコミットメントを「当てにして」本を書く学者というのがあまりいなかったということなんだと思います。僕は読者の知性を信頼して書くべきだと思っていました。それは教育者としての経験がもたらした確信でした。子どもを大人にしたければ、大人として扱う。学生たちに知的に成長して欲しかったら、すでに知的に十分に成熟している人間として扱う。子どもたちは自分に向けられた「敬意」を決して見逃すことはないからです。
「敬意」というのは「愛情」よりも「信頼」よりも、はるかに伝達力の強いメッセージです。若い人たちが最も敏感に反応してくれて、こちらの意図を過たず受信してくれるのは「敬意」です。だったら、読者の知性にきちんと敬意を払えば、先方は「受信する構え」をとってくれる。そうすれば「書き手と読み手の間の回路」が形成される。「回路」さえ通れば、あとはそこに情報を流せばいい。
コミュニケーションには、メッセージとメッセージの読解の仕方を指示するメタ・メッセージの二層があります。「これから私が語るのは、あなたたちが十分に知的に成熟していることを前提にしている」というのは、読解の仕方を指示するメタ・メッセージです。そのメタ・メッセージを読者が過たず受信してくれれば、コミュニケーションの回路は立ち上がる。
江さんは『寝ながら学べる構造主義』を読んで、この僕のスタンスを理解して、「街場の思想家」に認定してくれたのだと思います。それから後僕は「街場の」というタイトルがついた本をたぶん20冊くらい出しています。自分でつけたわけではなくて、どれも編集者がつけたものです。たぶんすごく使い勝手のよいタイトルなのだと思います。でも、「街場の」をタイトルに使った本を書いているのは、いまのところ日本では僕一人のようです。学者と生活者の間を「架橋する」という仕事が好きでたまらないという人がそれほど多くはいないということなのかも知れません。でも、実に楽しい仕事なんですけれどね。
(2024-01-03 07:27)