『月刊日本』から標記の件でインタビューをされたので、採録。
― 今年は朝鮮人虐殺100年の節目の年です。内田さんはこの歴史をどう受け止めていますか。
内田 朝鮮人虐殺は「わが国の歴史の暗部」です。関東大震災の地震や火災で多くの人々が亡くなり、生き残った人々もパニック状態にあった。そういう状況で「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「放火している」などという流言飛語が飛び交った。そして、自警団を組織した人々が朝鮮人や中国人や日本人を寄ってたかって刀や竹やりで殺した。混乱の中での出来事ですので、犠牲者の正確な数は分かりませんが、おそらく千人から数千人に及ぶと言われています。
なぜこんな非道なことが起きてしまったのか。原因は日本人の側の罪の意識だと思います。1910年に韓国を併合してから、朝鮮総督府は1919年の三・一運動などの独立運動を暴力的に弾圧してきました。日本に出稼ぎに来た朝鮮人たちにも日本人は非人道的で差別的な扱いをしてきた。ですから、日本人は「朝鮮人は日本人を恨んでおり、機会があれば復讐するに違いない」という不安を抱いていた。自分たちがこれまで朝鮮人たちに向けてきた憎々し気な顔を鏡に映して、それを他人の顔だと思い込んで恐れをなしたのです。これまで穏やかな共生のうちに暮らしていたら、「朝鮮人が襲ってくる」というような妄想が生まれるはずがありません。
排外主義における憎しみの対象は具体的な「個人」ではなく、抽象概念としての「集団」です。どの国でも、排外主義や民族差別が激しいのは、外国人が住んでいない地域です。個人的な付き合いがあれば、外国人を「集団」ではなく「個人」として見ます。個人として付き合っていれば、善人と悪人の比率も、賢者と愚者の比率も、どの民族も変わらないということがわかる。だから、固有名において外国人とかかわることができる人は暴力的な排外主義イデオロギーには簡単には染まらない。関東大震災でも、固有名を持った朝鮮人たちとの人間的かかわりがあった人たちはしばしば彼らを守る側に回りました。虐殺に加担したのは、「朝鮮人」というものを集団としてしか扱うことを知らない人たちです。
排外主義的暴力が発動する条件は二つあります。一つはどれほど暴力をふるっても相手から反撃される可能性がないこと。もう一つは攻撃される対象が有徴的であること。
朝鮮人は日本の植民地人民ですから第一の条件を満たしていましたが、もう一つの有徴性は微妙でした。というのは、日本人と朝鮮人の場合は外見で区別がつかないからです。ですから、関東大震災のときは、区別するために言語が使われました。自警団は誰何をした人に「『十五円五十銭』と言ってみろ」と迫り、語頭の濁音が発音できない人たちを「朝鮮人」として殺しました。
同じようなことは、台湾の1947年の二・二八事件でも行われました。この時は台湾人が中華民国人に対して「日本語を話してみろ」と迫って、話せない人を殺した。この二つの事件は「日本語運用能力が虐殺の根拠になった事件」として忘れてはならない出来事です。
― 昨今の日本では嫌韓感情や排外主義が高まり、韓国人をはじめとする外国人差別が表面化しています。
内田 朝鮮人虐殺について、たしかに現代人に直接の刑事責任はありません。しかし、私たちにはかつて日本人が犯した罪については、それを償う倫理的な責任がある。責任を引き受けるとは、ひとりひとりの死者たちが、どういう歴史的文脈の中で、どのように死んでいったのか、それをできるだけ具体的に詳細にわたって語り継ぐということです。
葬式で会葬者がひとりひとり故人の思い出を語り合うことが供養するということです。ただ、合掌して、「お悔み申し上げます」と言って済ませることはできない。具体的に何があり、どう死んだのか、それを語らなければ供養にはなりません。『平家物語』も『吾妻鏡』も『太平記』も、ひたすら人々がどう死んだのかを詳細に語ります。死者たちの事績を、レディメイドの基準に基づいて顕彰したり、断罪したりすることよりも「どう生き、どう死んだのか」を詳細に語ることの方が優先する。死者を供養するというのは、お経を上げたり、線香や供物を捧げることよりも「具体的にどう生き、どう死んだのか」を語り継ぐことの方が優先する。
さきの戦争でも、吉田満の『戦艦大和ノ最期』や大岡昇平の『レイテ戦記』は兵士たちがどう生き、どう死んだのか、感傷も毀誉褒貶も廃して、それだけを抑制的に描きました。彼らはそれが死者の供養になると思ってそうしたのだと思います。死者たちは祭神として祀られることよりも、どのような痛みや苦しみのうちに、あるいはどのようなかすかな希望を抱いて死んだかを証言してもらうことを望んだ。吉田や大岡はそう信じた。
しかし、明治維新以来150年、多くの人びとが「国のため」という理由で非業の死を遂げましたけれども、彼らを供養するために何をなすべきかについてはいまだに国民的な合意はありません。
上皇陛下も天皇陛下も、戦争の死者たちの「慰霊の旅」を象徴天皇の本務として引き受けてきました。それは実際に死者たちが眠っている場所まで行って、国籍にかかわりなく、その死を真率に悼むというものでした。これは立派な行いだったと思います。でも、その祈りから漏れてしまう人たちもいます。例えば、在日コリアンの死は誰が弔うのか。近現代史の中で、日本と朝鮮の狭間に落ち込んだ人たちです。そこで死んだ人たちを供養する責任は日本人にあるのか、韓国・朝鮮人にあるのか。確定的ではありません。でも、だからといって彼らを供養する仕事をその直系の子孫である在日コリアンだけに委ねるわけにはゆきません。彼らを「どの国にも属さない人」にした歴史的責任は日本人にあります。僕たちにもまた彼らを供養するつとめがあると思います。
韓国ではこの10年ほどの間、李氏朝鮮末期から日韓併合期を舞台にした映画やドラマが次々と製作されています。『ミスター・サンシャイン』や『密偵』など、どれも完成度の高いものでした。これまで描かれることの少なかった時代を集中的に描くことによって、「弔われざる死者たち」を改めて供養しようとしている。僕にはそのように見えます。
Apple TV+で昨年配信された『PACHINKO』というドラマがあります。釜山沖の影島で日韓併合の少し後に生まれ、結婚して1930年代に大阪に移り住んだソンジャという女性とその一族の歴史を描いた作品です。在日コリアンが主人公ですから、ドラマは途中からは日本が舞台になり、登場人物の多くは日本語を話します。作中では関東大震災における朝鮮人虐殺も殺される側の視点から描かれます。すぐれたドラマだと思いましたが、それ以上に「どうして、この原作を日本人がドラマ化しようとしなかったのか」考え込んでしまいました。
原作は韓国系アメリカ人の女性作家ミン・ジン・リーの同名小説で、ニューヨーク・タイムズの2017年のベスト10に選ばれた作品です。日本が舞台になった作品がアメリカで高く評価されるというのは、かなり珍しいことです。日本でも話題になっておかしくはない。しかし、日本では2020年に和訳が出ましたが、メディアではほとんど取り上げられることがありませんでした。僕がネットでドラマを観たのは22年の5月ですが、その時点でWikipediaで「PACHINKO」と検索したときに出てきたのはあのゲーム機のことだけでした。ドラマで日本人を演じたのも日本人の俳優ではなく、北米の日系人俳優でした。なぜ、これほど興味深いドラマに日本のメディアは無関心を装うのか。
近年の日本社会では「歴史の暗部」を直視するどころか、自国の歴史には恥ずべき過去などなにもないと言い募る歴史修正主義がはびこっています。毎年9月1日に都内で行われる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、歴代都知事は追悼文を送付していましたが、現職の小池百合子知事は2017年から送付を取りやめています。知事はその理由を「何が明白な歴史的事実か確定していないから」としています。体験者が証言する「さまざまな内容」は信用に値しないから「明白な事実」が確定するまでは何もしない、と。
しかし、タイムマシンで過去に遡ることができない以上、「明白な歴史的事実」が確定するということは不可能です。僕たちは「蓋然性の高い過去」までは語り得るけれど、「明白な歴史的事実」は語り得ない。しかし、「何があったか確定できない」以上、検証の努力もしないし、謝罪もしないし、供養もしないというのは、歴史的虚無主義という他ありません。
誰も神の視点から歴史を俯瞰することはでないというのは事実です。しかし、個人の資格においてなら証言することはできる。そして、その証言を集団として集積することが「歴史を語ること」につながる。
― それはどういうことですか。
内田 村上春樹は『遠い太鼓』というエッセイ集で、イタリアの友人に案内されて彼の故郷であるメータ村を訪れる場面を描いています。友人はメータ村のことをこう語ります。
「第二次大戦のことを、先週の話みたいに話すんだ。(中略)戦争中ナチの兵隊が村にやって来て、レジスタンスの容疑で村の青年を二人捕まえていったことがあった。彼らは二度と帰ってはこなかった。(中略)今でもその話をずううっとみんなで真剣な顔して話してるんだ」
メータ村の住人たちは第二次大戦のことを「先週の話」みたいに、「ずううっとみんなで真剣な顔して」話し続けている。こうやって自らの体験を繰り返し物語るということが本来の意味での「歴史を語り継ぐ」ということだと僕は思います。
以前、アメリカで『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』というラジオ企画がありました。作家のポール・オースターがラジオで「自分が経験した嘘のような本当の話」を募集したものです。全米から4000通の投書が集まり、その中からオースターが選したものを放送しました。それぞれのエピソードは人種、性別、職業、地域性を色濃く反映したもので、それを通じて「アメリカが物語るのを聴いた」とオースターはその感動を語っています。
この野心的な試みを真似て、10年ほど前に高橋源一郎さんと僕が選者になって「日本版ナショナル・ストーリー・プロジェクト」という企画を思いつきました。こちらも2000通ほど投書が集まったのですが、これがアメリカの「ナショナル・ストーリー」とは全く違う意味で「日本社会のありのまま」を表現するものでした。
多様性がないのです。エピソードはそれぞれ面白いのですけれど、ほとんどのものは投稿者が何者だか分からなかった。男性なのか女性なのか、若者なのか老人なのか、都会の人か田舎の人か、ホワイトカラーなのか肉体労働者なのか、しばしば読み終わってもわからなかった。だから、多様な個人の思い出を総合して日本社会を浮かび上がらせるという企図は達成できませんでした。でも、逆に「ああ、これが日本だ」ということはわかりました。日本は、その成員をみごとなまでに規格化してしまう社会なのだということは骨身にしみてわかりました。
先に公開された映画『国葬の日』(大島新監督)は安倍晋三元首相の国葬当日の日本各地の人々の声を採録したドキュメンタリー作品です。「賛成」「反対」「無関心」さまざまな立場の人々の声をすくい上げて、日本国民の政治的多様性を描き出そうというのがたぶんもともとのアイディアだったのだろうと思います。でも、実際には、僕たちの「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」と同じように、どの立場をとるにせよ、ほとんどの人が聞き覚えのある定型句を繰り返すだけでした。
自分の政治的立場を語る言葉がやりきれないほど貧しい。ほんとうにリアルな思いがあり、それを言葉にしようとしたら、出来合いの定型句では間に合いません。何を言っても言い過ぎるか言い足りないかして、じたばたするはずです。でも、その「じたばた」を経由して「ほんとうの思い」が垣間見える。でも、いまの日本人が政治について語るときには「言葉を探してじたばたする」ということがない。自分の個人的感懐を何とかして言葉にしたいという切迫がない。だから、「出来合いの言葉」をぺらぺらと語ってしまう。
でも、「正論」や「一般論」なんて、極端な話、どうだっていいんです。どうせ、誰かが同じことを言うんですから。言う価値があるのは、自分が身体を張ってでもここで言わなければ「他の誰も自分に代わって言ってくれない言葉」です。一般論や大義名分は言葉としては「軽い」んです。だって、自分が身体を張って言わなくても「誰かが」自分に代わって言ってくれるはずだから。自分が身銭を切ってまで言い続ける必要なんかない。簡単に捨てられる言葉だからこそ、言葉が軽くなる。
― なぜ日本人は一般論や正論しか語れなくなってしまったのでしょうか。
内田 「個人的にリアルなこと」より「一般的に正しいこと」の方を優先するようになったからでしょう。「個人的にリアルなこと」は言葉にしにくい。それを何とか言葉にしようと努力すれば、言葉はその分熟成して豊かになる。でも、その努力を日本人はもう放棄してしまった。面倒なので、出来合いの言葉を借りて済ませてしまうことにした。出来合いの言葉は「多数派の言葉」でもあります。だから、定型句を口真似している限り、なんとなく「多数派に属している」ような気分になれる。
もともと日本は同調圧力が過剰な社会ですけれども、今はSNSによる相互監視が広がったせいで、「誰でも言いそうなことを言え」という同調圧力が異常に高まっています。その結果、「一般論」と「逆張り」の二種類しか言葉がなくなってしまった。どちらも「誰でも言いそうなこと」です。「逆張り論客」たちにあれほどフォロワーが多いのは、真似することが簡単で、知的負荷がないからです。
「歴史を語り継ぐ」というのはその反対です。「自分が語らなければ誰も語る人がいない言葉」を語り、それを公共の知的資源として、誰でもアクセスできるようなパブリックドメインに供託するということです。そのためには、一人一人が「自分だけが証言できる言葉」を語るしかない。一般論や正論なんか100万人が語っても、歴史を語り継ぐ上では無意味なんです。
― そもそも歴史を語り継ぐとは、どういうことですか。
内田 それは個人の仕事です。よく「歴史の風雪に耐えたものだけが生き残り、歴史の淘汰圧に耐えられなかったものは消えていく」と言われます。でも、そこまで歴史の審判力を信じてよいと僕は思いません。現実には、善人が受難し、悪人が栄耀栄華を極め、賢者が不遇に甘んじ、愚者が脚光を浴びるというようなことは日常茶飯事です。歴史の審判力は軽々には信じることができない。でも、いまの日本人は「現実化したものは現実化するだけの価値があった。消えたものは現実化するだけの価値がなかった」という虚無的な歴史主義を信奉しています。
かつて司馬遷は『史記』の冒頭で「天道、是か非か」という激越な言葉で歴史の審判力を問いました。司馬遷は「列伝」の第一に「伯夷列伝」を置きました。伯夷・叔斉の兄弟は周王朝の禄を食むことを拒んで餓死した仁者です。仁者が窮し、盗蹠のような極悪人が天寿を全うしたことを歴史の審判として無批判に受けいれてよいのかと司馬遷は問います。伯夷・叔斉の名を後世に残したのは「天道」ではなく、孔子という個人でした。人々の事績の正否について語り継ぐのは「天の仕事」ではなく、「人間の仕事」である。司馬遷はそう言い切ります。これは歴史家の態度として正しいと僕は思います。
「歴史を貫く鉄の法則性」が僕たちに代わって真理を語ってくれるわけではない。歴史は僕たちが個人の資格で語るしかない。もちろん歴史の全容を「神の視点」から一望俯瞰して語れる人間なんかいません。僕たちにできるのは自分が確信を持てることを語ることです。あるいは、この人のこの言葉は後世に語り継がれるべきだと信じた人の言葉を伝える。「如是我聞」も「述べて作らず」も「子曰く」も風儀は同じです。
― 内田さんが自ら語り継ぎたい歴史はありますか。
内田 個人的には、李氏朝鮮末期の東学党の乱から日韓併合に至る時期の日韓の歴史について語り継ぎたいと思っています。この時期、樽井藤吉、権藤成卿、内田良平、鈴木天眼、金玉均、金琫準ら日韓両国の憂国の士たちがごく短期間でしたけれど、日本列島と朝鮮半島が一つの国になるという理想を共に抱いた。それは明治初年の「征韓論」と日韓併合の間の一瞬の「仇花」でしたけれども、その素志は尊いと思います。彼らもまたのちの在日コリアンのように、両国の狭間に生きた人々であり、今では両国の歴史どちらにも占めるべき場所を持っていません。でも、僕は彼らの名が忘れられることを惜しみます。
そう思っていたところ、『月刊日本』から権藤成卿の著作を復刊するから解説を書いてほしいというご依頼を受けましたので、いまこつこつ書いているところです。日韓の人士の個人的でリアルな交流に軸足を置いて書くつもりでいます。例えば、天祐俠の若者たちはわずか14名で東学党の領袖全琫準に会いに行き、同盟関係を結びます。鈴木天眼はその時の全琫準の印象についてこう証言しています。
「長き脊の直立せる姿勢にて、寧ろ痩せたる神経質らしき顔面に炯たる眼光を閃かし急調絶語、声涙並び下るの處、予輩をして肝胆震動せしむ。彼の当時の音容は予が一生涯目にすがるものなり。予輩乃ち生死の友たるを盟ふて聊か後図を約せり」(高橋信雄『鈴木天眼 反戦反骨の大アジア主義』)
日韓両国の革命家たちが初めて出会った時の証言が「生死の友たるを盟ふて聊か後図を約せり」だったことは重いと思います。この言葉を語り継ぐだけでも彼らを供養することにも日韓両国の未来に資することにもなると思います。(7月31日 聞き手・構成 杉原悠人)
(2023-08-21 07:04)