新刊『ルポ食が壊れる』(文春新書)を出した堤未果さんと先日対談した。食と農を語る言説がビジネスとテクノロジーと国際政治の専門用語で埋め尽くされる現実を活写した怖い本である。GAFAMやアグリビジネスはすでにこの分野に深く広く参入している。ビル・ゲイツがこれまでに買い占めた農地が香港と同面積と聞けば、農業が資本主義にとっての次の「ブルーオーシャン」らしいことは知れる。
だが、食と農が命にかかわる大事である以上、それは決して市場に従属すべきではない。
食文化の基本は飢餓の回避である。だから、人類は「主食をずらす」という工夫をしてきた。米、小麦、イモ、豆、トウモロコシなどなど。環境に強いられた選択であると同時にそれは安全保障でもあった。主食が同じなら欲望が同一物に集中する。不作になれば奪い合いが始まる。主食が集団ごとに違っていれば、とりあえず希少性に起因する戦いは抑制できる。病虫害などである主食植物が絶滅しても、違う植物を主食とする集団は生き延びて、人類全体としてはリスクヘッジできる。
多くの集団では主食の穀物の上に発酵させた調味料をかける。それはしばしば他の集団の人には「腐臭」としか思われない異臭を放つ。他人に「あんな腐敗したものは食べられない」と思わせることが食の確保のためには実は最も効果的だからである。
何より食文化は「不可食物の可食化」の努力の結晶である。焼く、煮る、干す、蒸す、晒す、燻す...無数の調理法を試みて、人類は手が届く限りの自然物を可食化しようとしてきた。その発明の才が人類のここまでの繁殖をもたらしたのである。
だが、食をビジネスの枠組みで考えた場合には、全員が同一のレシピで調理された、同一の食物を食べ続けるときに製造コストは最少化し、企業利益は最大化する。だから、企業に食と農を委ねた場合、企業は必ず地上の80億人の食文化を平準化することをめざす。単一作物を大規模栽培し、似たような食物を人類的な規模で消費することを願うようになる。
そしておそらく不可食物の可食化は、調理法の工夫によってよりはむしろ遺伝子操作で達成しようとするだろう。
それはいずれも人類の飢餓耐性が弱まることを意味している。
だが、食と農をビジネスの言葉で語る人たちは誰もそのことに言及しない。それが恐ろしいという話を堤さんとした。
(AERA3月8日)
(2023-04-01 08:01)