世界中どこでもヘイトクライムは存在するけれども、アメリカにおける「差別」と「暴力」の突出ぶり「病的」と形容してよいだろう。
リンカーン大統領が奴隷解放令宣言を発令したのは南北戦争中の1863年のことである。でも、人種差別はなくならなかった。南北戦争後の一時期は、南部諸州でも黒人の政治家が次々と登場し、黒人議員が州議会の過半を占める州さえあったが、その後にすさまじいバックラッシュが来た。北軍の撤兵と同時に、南部諸州では、公立学校における人種分離、公園、レストラン、ホテルなど公共施設の使用禁止・制限、識字能力試験を課すことによる投票権を制限するなど、黒人を排除するためのさまざまな州法が制定された(「ジム・クロウ法」と総称される)。
私たちは奴隷解放宣言のあと、緩慢にではあるが、アメリカにおける人種差別は段階的に解消されたのだろうと考えてしまうが、それは違う。いったん黒人たちは奴隷身分から解放されたのだが、南部諸州では、彼らを事実上の被差別身分に落とすことがもう一度合法化されたのである。
それが19世紀末のことである。1964年の公民権法で、黒人と白人が同じ人間として基本的な人権を享受できることが史上初めて確定するまでには、さらに100年を要した。それから半世紀を経ったアメリカでBlack Lives Matter 運動が起きたことで、私たちは人種差別がいまだにアメリカ社会を深く蝕んでいることを知った。
なぜ、人種差別の廃絶がアメリカでは遅々として進まないのか?
マイノリティ差別はどこの国でもあることだ、アメリカだけではない。人間とは所詮「そういうものだ」としてシニカルに思考停止する人がいるかもしれない。でも、それは半分正しくて半分間違っている。人間はしばしば非道で残虐であるが、それにしても程度の差というものがある。店舗やレストランでマイノリティを差別的に扱うことと、マイノリティであるという理由で殺すことの間には決定的な差がある。相手の人格を攻撃することと、相手の身体を破壊することの間には、ふつうの人間にとっては越えることの非常に困難な心理的な壁があるはずである。そもそも法治国家であれば、それは重罪人として残る人生を獄中で送るという「割に合わない」代償を支払わなければならない。
けれども、アメリカではその壁が低い。非常に低い。だから、もののはずみで人はこの壁を越えてしまう。
本作は、差別意識がいささか過剰だけれども、ふつうに市民生活を送っている人が、もののはずみで殺人を犯す話である。その日常から異常へのあまりに容易な切り替えがこの映画が観客にもたらすショックと恐怖の根幹部分をかたちづくっている。
ヨーロッパにも人種差別暴力を挿話的に描いた映画はいくつもある。レイシストやセクシストが汚い言葉を吐き散らす場面を私はさまざまな映画で観てきた。でも、そういうことをするのはたいてい「ふつうの人」ではない。スキンヘッドとか、ジャンキーとか、浮浪者とか「ふつうじゃないスティグマ」を背負った人たちである。そういう人たちの差別的なマインドがどうして生まれたのかは、理由がわかる。彼ら自身が「ふつうの人」たちから差別されてきたので、その怨恨を「彼らよりさらに社会的に周縁的で、反撃する実力のない人」に向けるのである。仕組みは分かり易い。だから、社会福祉制度が整備されたり、細やかな気づかいを示してくれる人が身近にたりすれば、このタイプの被差別意識はかなり緩解するはずだと私たちは信じることができる。
でも、怖いのは、別に誰からも差別されていないし、その人種属性によって社会的不利益をこうむってもいない「ふつうの人」の中に育つ差別意識とマイノリティへの憎悪である。彼らは何か具体的な被害をこうむっているわけではない。その差別意識と憎悪は幻想的なものである。
現実的根拠を持つ偏見なら現実的政策によって矯正可能である。だが、幻想に養われた偏見は現実をどれほどいじっても矯正できない。この映画の怖さはそこにある。
なぜアメリカではそのような幻想的な差別意識が「ふつうの人」の心理の深層に根を張っているのか。それについて個人的な説明を試みたい。
アメリカは自由の国である。これについてはどなたも異論がないと思う。でも、言葉を付け加えるなら「アメリカは自由に病的に高い価値が付与されている国である」ということになる。
アメリカは独立戦争を戦って英国の植民地から主権国家になった。だから、市民には不当な政府の支配を実力を以て否定する権利があるというのはアメリカ建国の基本的なアイディアである。独立宣言には、政府が市民たちの権利を損なうふるまいをした場合には、「人民には政府を改革し、あるいは廃絶し、新しい政府を立ち上げる権利がある」と明記してある。
独立宣言の11年後に制定された合衆国憲法では、さすがに市民の抵抗権・革命権は明記されていない。それを補うように、憲法修正第1条と第2条に「自由を保障する」という文言が書き込まれている。
憲法修正第1条は「信教の自由、言論出版の自由、人民が政府に請願する権利」を保証している。「請願(petition)」というのは「抵抗権」「革命権」の希釈された表現である。市民は政府に対して「もろもろの不都合の除去のために」、「平和裏に集会をする」権利があると修正第一条にはある。「除去(redress)」とは具体的にどういう手立てのことを指すのか、それは市民一人一人の判断に委ねられている。そのために市民が結集することは許されているが、「平和裏に(peaceably)」という限定がなされている。
「平和裏に」という限定を加えることで、憲法修正第2条には「武装権」が残された。
独立戦争における戦闘の主力は「武装した市民(ミリシア)」であった。武装した市民がアメリカにおける軍事的実力の本態なのである。だから、合衆国憲法では常備軍の保持が禁じられている(ほとんどの人は知らないと思うが、合衆国憲法8条12項に明記されている)。
2020年1月6日の連邦議会への乱入事件は私たち日本人には「暴徒の乱入」としか見えないけれど、叛徒たちは、主観的には、独立宣言に明記された市民の自由を抑圧する政府を「改革・廃絶する権利」を行使したのである。あれを「もろもろの不都合の除去」のための「請願」であると考える市民にとっては、あれが違法とされることはおおいに心外であっただろう。
アメリカは市民的自由を重く見る社会である。病的なほど重く見ると言ってよいと思う。だから平等がこれほど激しく忌避されるのである。というのは、自由と平等は原理的には両立しがたいからである。
考えればわかると思うが、全国民が等しく豊かで、健康で、文化的な生活を送れる社会を実現しようと思ったら、とりあえず富裕な人から税金を多めに取り、弱者差別を法律で禁止し、弱者を守り、養う仕組みを作らなければならない。言論の自由をある程度規制し(レイシスト、セクシスト的発言は抑制の対象になる)、私財の一部を公共に供託させるシステムなしに平等は実現できない。公権力が市民の生活に介入して、市民的自由の一部を制限することなしに、平等は達成され得ない。
でも、それだけは絶対に許せないという人たちがアメリカにはたくさんいる。驚くほどたくさんいる。彼らは「社会的公正」とか「平等」を端的に悪であると見なす。そんなものは近代西欧が生み出した「イデオロギー」に過ぎない。生得的な差異や能力差によってヒエラルキーが形成されることのどこが悪いのかと言い切って、「政治的正しさ」を一蹴し、民主主義より個人の自由を優先する過激なリバタリアン(今では「新反動主義者」とか「加速主義者」と呼称されるらしい)が今アメリカには簇生している。
でも、こういう確信犯的な差別主義者がアメリカで大量発生するのは、ある意味で当然なのである。それはアメリカでは「自由は平等に優先する」ということが国是のうちに埋め込まれているからである。あまりそういうことを言う人がいないので、私が代わって説明する。
そもそも合衆国憲法には「平等の実現」は政府の目標としては掲げられていない。
独立宣言にはこう書かれている。「万人は平等なものとして創造されており、万人は創造主から奪うことのできないいくつかの権利―生命、自由、幸福追求の権利―を賦与されている。」
つまり、合衆国建国に先立って、すでに万人は神によって「平等なものとして」造されているのである。すでに創造主によって平等は達成されているのである。
「生命・自由・幸福追求の権利」は政府が保証し、これを守らなくてはならない。それはアメリカの立国の根本原理である。だから、それを怠った政府は「改変・廃絶」されるリスクを負う。だが、「平等を実現せよ」とは独立宣言にも、憲法にも書かれていない。だから、平等の実現を怠った政府は「改変・廃絶」されるリスクを負わない。
平等の実現は政府の義務でも市民の義務でもないのである。万人は平等なものとして創造されているのだから、そのあとの自由な競争によってどれほど強弱貧富の差が生まれたとしても、それは自己責任なのである。
そういう思想がアメリカの場合は建国以来ずっと生き続けている。生き続けているどころではない。それはむしろ強化されている。自由を享受できる人々、平等を忌避する人々は強者であり、勝者であり、社会のルールを決め、政策を決定することができる人たちである。だから、アメリカでは「社会的公正や社会正義の実現より私の自由の方がたいせつだ」と断言することは少しも疚しいことではないし、恥ずべきことでもないのである。
この映画の監督ベス・デ・アラウージョは母親が中国系、父親がブラジル人という女性である。彼女にとってどういう社会が「まとも」に見えるのか、個人的基準を私は知らないけれども、映画を観る限り、マイノリティの側にいる彼女はアメリカを「かなり異常な社会」と見なしていることはわかる。
映画の冒頭で、「アーリア人団結のための娘たち」の一人は同僚のマイノリティが自分より早くマネージャーに登用されたことを「アファーマティブ・アクション」だとして言葉激しく批判する。われわれは平等に創造されたものとして自由な競争をしているのだ。たまたまアメリカ社会においてマイノリティである者が、それを理由に過剰なアドバンテージを享受するのは「アンフェア」だという彼女の反平等主義の演説は「娘たち」全員の喝采を浴びる。おそらくこの喝采に唱和する人がアメリカには数千万人いるのだと思う。
「娘たち」がすさまじい暴行を加える中国人姉妹は彼女たちより富裕であり、彼女たちよりもよい家に住んでいる。この中国人姉妹は「娘たち」の眼には彼女たちよりも社会的に成功しているように見える。それが憎しみを倍加する。貧富の差は能力差の帰結だという自由競争ルールを奉じているはずの「娘たち」は、なぜかマイノリティについては、その成功や富裕が自由競争での努力のトロフィーだということを決して受け容れない。それは「平等」主義的な権力の干渉によって得た「不当利益」なのだ。
マイノリティが自分たちより劣位にあれば「自由」の名において侮り、自分たちより上位にあれば「平等」の恩恵だと言って罵る。ここには出口がない。「娘たち」のこの心理造形には、おそらくマイノリティであるデ・アウラージョ監督自身の実体験が濃厚に反映しているのだと思う。
でも、これを何らかの政治的主張を語る映画(pièce à these)だとは私は思わない。これは間違いなく、ヒッチコックの『ロープ』を本歌取りしたワンショット・リアルタイムの実験作品である。そして、観客サービスの行き届いたホラー映画でもある。「人間はモンスターより怖い」という(太古から知られた教訓を語る)恐怖譚である。
映画は「死んだはずのもの」が湖水から浮かび上がるという『13日の金曜日』的な場面で終わる。「死んだはずのものの再訪」をフランス語ではrevenant(幽霊)と言う。「娘たち」のマイノリティへの憎しみは決して終わることなく、この後も繰り返しさまざまな症状として「再帰」してくるだろう。それがアメリカに取り憑いた幽霊なのだ。アメリカがこの幽霊と縁を切れる日が来るだろうか。たぶんいつかは来るのだろうけれど、まだずいぶん先のことだろうと私は思う。
(2023-03-07 14:25)