パワークラシーの国で

2023-02-22 mercredi

 若い経済学者が高齢社会対策として高齢者の「集団自決」を求めた発言がニューヨークタイムズに大きく報じられた。
「炎上」発言をしたイエール大学助教の成田悠輔氏について、記事は「米国の学界ではほとんど無名だが、日本のSNSでは、その極端な見解のせいで、老人支配で割りを食っていると思っている不満な若者たちを中心に数十万のフォロワーを獲得し」、「社会的禁忌を嬉々として破ることで熱狂的な視聴者を獲得してきた日本の扇動者の一人」と紹介していた。
 記事を読んでいささか考え込んでしまった。日本社会を「老人支配(gerontocracy)」と呼ぶのは果たして適切であろうかと思ったのである。
 確かに日本社会には「権力を持つ老人たち」がはびこっていて、若い人たちのキャリア形成を阻んでいるのは事実である。だが、他方には圧倒的多数の「権力を持たない老人たち」がいる。彼らは支配され、収奪され、権利を軽んじられる側にとどまっている。このような社会を「老人支配」と呼ぶことが適切であろうか。
 では、どう呼べばいいのか、しばらく考えているうちに「権力者支配(powercracy)」という言葉が思い浮かんだ。
 むろんそんな政治用語は存在しない(今私が思いついたのだから)。だが、「権力を持つ者が権力を持つ」「支配する者が支配する」という日本の政体の同語反復性を形容するには「パワークラシー」という語が適切なのではあるまいか。
 ふつうは王政であれ、貴族政であれ、寡頭政であれ、民主政であれ、主権者はその権利を正当化する根拠を示す。「神から授権された」とか「民意を負託された」とか、あるいは端的に「賢明だから」とか。「パワークラシー」は違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っている」ということだからである。
「パワークラシー」の国では、権力者批判が許されない。権力者を批判できるのは、権力者だけだからである。選挙で相対少数になった野党には政権を「批判」する資格がない(できるのは「反発」だけである)。市民にも政治について不満を述べる権利はない。不満を口にすると「だったら、お前が国会議員になればいい」と言われる。メディア有名人を批判すると「だったら、お前が有名になって、メディアで自説を語ればいい」と言われる。
「パワークラシー」の国では、権力者が権力者であるのは、政治的に卓越しているからでも、知的に優れているからでも、倫理的に瑕疵がないからでもない。すでに権力を持っているからである。これが「パワークラシー」である。「パワークラシー」の社会では、「権力的にふるまうことができる」という事実そのものが「権力者であること」の正統性の根拠になるのである。なんと。
 先日、ある政治家が国会議員を引退するに際して息子を「跡目」に指名するということがあった。日本ではよくあることである。「跡目」を継ぐことになったその息子はさっそくホームページに自分の家系図を掲げて、近親者に三人の総理大臣を含む何人もの国会議員がいるという「毛並みのよさ」を誇示してみせた。自分が国会議員として適格であることの根拠として「国会議員を輩出している家系に属する」ことを掲げたのである。たぶん本人も、それを提案した周りの人間も、それが一番アピールすると信じたからそうしたのだろう。「すでに権力の側にいることが、今後とも権力の側にいるための最優先かつ必須の条件である」という「パワークラシー」信仰をこれほど無邪気に表明した事例はさすがに珍しい。
 わが国が「パワークラシー」の国だと考えると、当今の権力者たちの異常な言動が理解できるはずである。彼らの非論理性や非倫理性は、別に何らかの政治目的の達成のために採択された非情な手段ではないのである。権力者であるために必要なのは、卓越した政治的見識を持つことでも、雄弁の才に恵まれていることでも、人心掌握に長けているからでもなく、「現に権力的にふるまっている」という既成事実だったのである。
 だから、彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。
 まことに困ったことに、「パワークラシー」の国では、権力者だけでなく、権力を持たない一般市民までがその影響を受けて、「権力者であるような顔つき」を競うようになる。
 知者が統治する国なら、人々は自分を知者のように見せようとするだろう。有徳の人が統治する国なら、人々は自分もまた有徳者であるように見せようとするだろう。同じ理屈で、権力的にふるまう者が統治する国では、上昇志向に駆られた人々はそれを真似ようとする。
 どうも最近、非常識で、傲慢で、攻撃的な人が増えてきたなと思っていたが、あれは別に日本人の人格が劣化したわけではなく、彼らなりに社会的上昇めざして、「いやな野郎」になるべく努力していたのである。そう気づいて、腑に落ちた。