被査定マインドについて

2023-01-03 mardi

 合気道という武道を教えている。稽古を始めて半世紀、教えるようになってから30年経った。数百人の門人を育てて分かったことは、今の日本社会が「非武道的な人間」を量産するための仕組みだということである。
 誤解している人が多いが、武道は勝敗強弱巧拙を競うものではない。ふつうの人は武道というのは、競技場にいて、ライバルと対峙し、勝敗を争ったり、技量を査定されるものだと思っている。たしかに、サッカーやボクシングやフィギュアスケートはそうである。でも、武道は本来はそういうものではない。というのは、「査定」されるというのは「後手に回る」ことだからである。「後手に回る」ということは武道的には「遅れる」ということであり、それは勝敗を競う以前に「すでに敗けている」ということである。
 武道修業の目標は「場を主宰する」ことである。柳生宗矩の『兵法家伝書』には「座を見る 機を見る」という言い方があるけれど、要するに「いるべき時に、いるべき処にいて、なすべきことをなす」ことである。いつどこにいて何をするのかについて、あらかじめ誰かが「正解」を知っていて、それに沿うように生きるということではない。正解はない。自分にとって最も自然で、最も合理的で、最も必然性のある生き方を過たず生きるということであり、それを決めるのは私である。誰かが「お前の生き方はそれで正しい」と永代保証してくれるということはないし、逆に誰かに「お前の生き方は間違っている」と言われてもおいそれと従うわけにはゆかない。
 武道的な生き方というのは、誰かが作問した難問に答えて、その適否について誰かに点数をつけられるということではない。だから、人が「正解」を求めている限り、つまりどこかに「作問者」がいて、その人が「採点」をするという前提に場にある限り、私たちは「後手に回り」続け、永遠に「場を主宰する」ことができない。
 
 しかし、私たちの社会では、人々は決して場を主宰することができないように育てられる。
 生まれてからずっと子どもたちは相対的な優劣を競い、査定されることに慣らされている。学校では成績をつけられ、部活では勝敗を競わされ、会社では勤務考課される。ずっとそうやって育ってきた。だから、問題に答えて、採点されて、その点数に基づいて資源の傾斜配分に与るという生き方以外の生き方がこの世にあることを知らない。ほとんどの人は「査定に基づく配分」を地球誕生以来の自然界のルールであるかのように信じ込んでいる。でも、それはごく限られた条件下においてなら役に立つこともあるという「ローカルルール」に過ぎない。
 
 合気道の稽古ではまずこの「被査定マインド」を解除することから始める。これがまことに難しい。発想の根本的な切り替えを要求するからである。
 例えば、初心者は技をかける時に、相手の反応をつい気にしてしまう。「僕の技、効いてますか?」と相手に訊ねる心地になってしまう。
「5段階評価でいったら何点ぐらいですか?」と相手に気前よく「査定者」の立場を譲り渡して、相手の「採点」を待ってしまう。相手が「試験官」で自分が「受験生」であるという決定的に不利な立場を当然のように自ら進んで採用してしまう。それほどまでに彼らは「査定されること」に慣らされているのである。本当を言えば、「技がかかっているかどうか」なんてどうでもよいのである。
 考えてみて欲しい。目の前にドアがあるときに「私の動線を塞いでいる敵がいる」と考える人間がいるだろうか? 壁の向こうにたどりつくためにどういう技を使えばいいか思案する人間がいるだろうか? 
 私たちはそんなことはしない。ただすたすた歩いてドアノブを回すだけである。
 稽古の時もそれと同じである。「僕の技、ちゃんと効いていますか?」と相手の反応を窺う者は「ドアノブの回し方」の巧拙についてドアノブに向かって「今の回し方、何点ですか?」と訊いているようなものである。
 要は壁の向こう側に行けばよいのである。庭に出て回り込んでもいいし、壁を破ってもいいし、「壁抜け」の秘術を使ってもよい。好きにすればいい。それが「先手をとる/場を主宰する」ということである。そう説明しても、なかなか分かってもらえない。
 誰も君を査定しない。他の門人との相対的な強弱や巧拙を論うものはここにはいない。自分の身体が適切に機能しているかどうか判断できるのは君の身体だけである。訊くなら自分の身体に訊きなさい。
 私はそう教えるのだが、そういうことをほとんどの入門者は生まれてから一度も言われたことがないのである。日本社会の病は深いのである。
(2022年7月7日)