お蔵出しシリーズ

2022-12-29 jeudi

文春の山ちゃんから、ブログ記事のコンピレーション本をまた作りたいというオファーを頂いたので、いろいろな媒体に書いたままHDの筐底に眠っていたエッセイを「お蔵出し」として順次公開してゆくことにした。今年1年の分に限定したけれども、ずいぶんたくさんある。適当に選んでアップするので、順不同、媒体もランダムである。まずは『週刊金曜日』掲載の真兵くんと海青子さんご夫妻の「ルチャ・リブロ」の話から。

「土着の知」を掲げて活動している青木真兵君と久しぶりに人を集めて対面での対談をした。青木君の近著『手づくりのアジール』(晶文社)の宣伝のためである。
 青木君は十数年前に私の大学院のゼミに聴講生として通ってきていた青年である。地中海古代史を専門にする研究者なのだが、都市での生活に疲れて、パートナーの海青子さんと一緒に奈良県の東吉野村という山村に移り住み。そこに家を借りて、自宅を「私設図書館」として開放し、地元では障害者の就業支援をしながら、東吉野を拠点にして学術的な発信を続けている。
 直感に従った場合には、まず行為があり、後になって「どうして自分はあんなことをしたのか?」自問することになる。でも、もともと直感的に動いたのであるから、理由は一つではない。いくつもある。小説の場合だと、複数の読みに開かれている作品は豊かな作品と見なされる。それと同じで、複数の読みに開かれている人間的行動は「豊かな行動」である。そういう言い方はあまりしないが、「正しい行動」や「適切な行動」とはレベルの違うところに、「豊かな行動」というものがあるのである。
 人がある場所を離れて別の場所に移動する時の最大の理由は「ここにずっととどまっていると何か悪いことが起きる」と直感されるである。これは叡智的なものではなく、身体的なものである。「肌に粟を生じる」とか「ざわざわする」とか、そういう皮膚感覚的なものである。「アラームが鳴動する」という言い方が合う場合もある。頭の中で警戒音が鳴り続けて、とても耐え難く、少しでも音量が小さくなるように身体の向きを変えたり、立ち位置を変えたりするうちに、気がつくと音が静まっている。何かめざす目標があって、それに向かって移動したわけではない。
 青木君によれば、人間を含めてすべてに「値札」がつけられて、その価格によって格付けされる社会のありように耐え難さを感じたのだそうである。その説明には私も得心がゆく。それは彼とは逆の行程を歩む人たちのことを考えればわかる。
今でも東京は人口が増え続ける唯一の自治体である。なぜ東京が若者を惹きつけるのか。私見によれば、それは「値札をつけられたい」という欲求に応えてくれるからである。東京は若者たちを厳密かつ客観的に格付けする都市だからである。
 値札をつけられると、自分が将来どの程度の社会的地位に就けるのか、どの程度の財貨を所有できるのか、どの程度の配偶者を期待できるのか、それがかなり正確に予測できる。そう人々は信じている。格付けに基づいて下絵を描かれた「キャリア形成コース」に身を添わせて、迂回せず、無駄をせずに人生を「上がり」まで進むことが「自己実現」だと多くの人は信じている。
 だから、今の学校では早い段階から「将来の夢」を特定することを求められる。どこに進学して、どんな知識や技能を身につけ、どんな職業に就いて、いくらくらい稼ぐつもりか、それを早いうちに知っておけと急かされるのである。気の毒な話である。だが、社会的承認やアイデンティティーの確立を「正確な値札がつくことだ」と多くの人たちが信じている限り、キャリア形成をめざす若者たちは都市に集まり、「私に値札をつけないでくれ」と思う人たちはそのゲームから降りるようになるだろう。いずれ「格付け」を拒む若者たちが一定数を超えた時に日本社会も少しはまともなものに変わり始めるだろうと私は思っている。というような話を二人でした。