みなさん、こんにちは。内田樹です。
最後までお読みくださってありがとうございます。
ご覧の通り、これはさまざまな媒体に書いたエッセイのコンピレーション本です。『サンデー毎日』に何年か前から不定期に長文の寄稿をしておりまるので、そこにこれまで書き溜めたものがベースになっています。その他は新聞や雑誌に書いたままハードディスクの底に眠っていたものを集めて、一冊にしました。
頭から書き下ろしたものとインタビューを添削したものが混在しているので、文体もタッチもひとつひとつで違って、統一感を欠く憾みはありますが、まあ、それも気分転換になって読みやすいかも知れません。
今回、単行本にまとめるにあたってゲラを通読しましたが「ううむ、暗いなあ」と思いました。時事的なものを書くとどうしても暗くなっちゃうんですよね。他のエッセイ集でしたら、ところどころで武道や宗教の話、映画や文学の話も出てて、ちょっと「コーヒーブレーク」が取れるんですけれど、本書のように、政治の話ばかりしていると、どこまでも果てしなく暗くなります。
そこで「あとがき」では「お口直し」に、「どうして現代日本で政治について語るとこんなに暗くなるのか?」という話をしてみたいと思います。変な話ではありますが、それほど暗い話ではありません。ちょっと座り直して読んでくださいね。
日本が高齢化していることは皆さんご存知ですよね。ある国の高齢化の程度を知るためにはいろいろな指標がありますが、その一つは「中央年齢」です。
「中央年齢」というのは、「その年齢よりも上の世代と下の世代の人口が同数」であるような年齢のことです。日本の中央年齢は45・9歳。堂々の世界一です。
ちなみに世界で一番中央年齢が低いのはニジェールで15.0歳。これは「若い国」であるというよりは、たぶん治安が悪すぎて長生きできないということなので、ニジェールの人たちにとっても、あまりうれしい数字ではないと思います。
ちなみに中央年齢が17歳以下なのは、他には東ティモール、ザンビア、アフガニスタン、アンゴラ、マリ、ソマリア、ウガンダ、チャドなどがあります。どうやら国内で内戦やテロが続いて、統治機構が満足に機能していなくて、公衆衛生のレベルも低いという国が「若い国」のようです。だとするなら、日本の45・9歳は、日本がいかに治安がよく、統治機構がきちんと機能していて、公衆衛生への気配りが行き届いているかを示す「先進国指標」だと解することもできます。
豊かで安全なのだけれど、なぜか子どもが生まれない国。
それが中央年齢の高い国のとりあえずの特性だということになります。
他の国の中央年齢を見ると、フランスが40.6歳、イギリスが40.2歳、韓国が39.4歳、ロシアが38・3歳。なんとなく、「そうだろうな」というような数字が続きます。
面白かったのはアメリカと中国が同率40位ということ(37・4歳)。世界の覇権を競う二大国が人口の年齢構成が近いんです。ふうん、ですね。でも、この後、アメリカはそれほど高齢化しませんが、中国は一人っ子政策のせいで急激に高齢化します。その人口構成の「若さ」の差が、いずれは国力の差に反映してくるのでは・・・と僕は考えております。
でも、僕は今そんな話をしたいんじゃないんです。違う話です。
僕が、日本の中央年齢を確認している時に、一瞬、目の端に「2位ドイツ 3位イタリア」という文字列が見えたのです。日本、ドイツ、イタリア? その三国において中央年齢が高い? それ、どういうこと?
そして、リストの続きを見て驚くべき事実を発見しました。
まずはそのリストをご覧ください。
1位日本 2位ドイツ 3位イタリア 4位ブルガリア 5位ギリシャ 6位オーストリア 7位クロアチア 8位スロベニア 9位フィンランド 10位ポルトガル
どうです。わかりましたか、これらの高齢化国の共通点が。
そうです。ポルトガル以外の9つの国と地域はすべて「第二次世界大戦の敗戦国」なんです。スロベニアはナチスに占領されて対独協力していた「地域」で、厳密な意味での「敗戦国」には当たりません。ポルトガルは中立国でした(サラザール独裁のファシスト国家でしたが)。
このリストから言えることはとりあえず一つ。
それは「ファシズム体制で戦争を始めて、敗北した国では、戦後しばらくしてから、子どもが生まれなくなった」ということです。
戦後しばらく経ってからなんです。ここに僕は興味を惹かれました。
日本のベビーブームはご存じの「団塊の世代」、1947年から49年、戦争が終わってすぐに、どっと子どもが生まれました。年間260万人超えが3年続いたのです。
ドイツでも戦後にベビーブームが始まってそれが63年まで続きました。イタリアもドイツとほぼ同じで65年まで出生率は上がり続けました。戦後すぐは敗戦国でも、子どもたちはどんどん生まれた。まるで戦死者たちの分を取り返すような勢いで子どもが生まれた。
僕は1950年生まれ、「団塊の世代」の尻尾です。その時代の子どもの多さをよく覚えています。小学校の教室が足りなくて、最初のうちは「二部授業」をしていたくらいですから(午前と午後で入れ替え制だったんです)。
僕は東京の南西のはずれの工場街の中学校に通ってましたけれど、1クラス50人超で、僕の学年が8クラスでした。2つ上の学年は10クラスありました。とにかく子どもの数が多かった。
でも、どこも家は貧しかったんです。井戸水汲んで、たらいに水溜めて洗濯板で洗濯して、暖房は火鉢だけ。そういう「共和的な貧しさ」の中で、東京でも地域の共同体は助け合いながら、わりと機嫌よく暮らしていた。
機嫌がよかったのは、みんな貧しかったけれど、自由だったからです。長く戦争が続いた後に、ようやく平和が訪れた。もう兵隊にとられることもなくなったし、空襲もなくなったし、特高も憲兵隊も治安維持法も隣組もなくなった。1930年代から長く続いた重苦しい「戦争の時代」が終わった。もう戦争で死ぬ心配もなくなったし、もう強権で抑圧的な政治体制に怯える必要もなくなった。そのことにみんな心底「ほっとしていた」のです。
父親たちが酒を酌み交わしているときに、何かのはずみで戦争の話になったときに、「でも、敗けてよかったじゃないか」という言葉が口にされるのを僕は何度か聞いた覚えがあります。それは比較的穏やかな口調で語られ、そのフレーズが出ると、そこで戦争の話は終わりました。
小津安二郎の『秋刀魚の味』のことは本書の初めの方にも出てきますが、「敗けてよかったじゃないか」というのは戦後のある時期までは、戦中派の人たちにとってはずしんと腹にこたえるような説得力のあるフレーズだったのです。「敗けてよかった」というのは、戦争で死ぬ恐怖と、強権的な政府に弾圧される恐怖の二つの恐怖から解放されたということです。それが日本の若いインテリたちの偽らざる実感だった。
つまり、その時点では、日本の敗戦は決してトラウマ的な経験、屈辱的な経験としては受け止められていなかったということです。
敗けたおかげで自分は死なずに済んだ、自由で民主的な社会が実現した、言論の自由も集会結社の自由も、信教の自由も手に入れた。とにかくやっと手に入れたこの自由を思い切り享受しよう。
「戦勝国に恵んでもらった自由なんかうれしがるな。押し付けられた憲法なんかありがたがるな」というような話をしている人はその時代の日本にはいませんでした。いたのかも知れないけれど、ほとんど声にならなかった。今僕が「」で括ったようなことを言い出したのは60年代半ばの江藤淳ですが、江藤は敗戦のとき12歳でした。
敗戦直後の日本というと、必ず「リンゴの唄」が流れている焼け跡の闇市の映像が使われます。その画面の中の人々の「明るい顔」に僕たちは驚かされます。そこから知れるのは、敗戦がうれしいくらいに戦争がつらかったということです。
その明るい気分は僕の記憶にも残っています。敗戦からしばらくはそうでした。楽観的で向日的な雰囲気が世の中にはありました。少なくとも、60年代末までは「りんごの唄」的な明るさの残り香は日本社会のどこかに漂っていました。70年代くらいからそういう穏やかな気分が消えて、社会が殺伐としてくる。でも、高度成長期からバブル経済にかけての時期ですから、みんな顔つきは殺伐としているけれど、金だけは潤沢にあった。金さえあれば何でも買えるという奇妙な多幸感の中で、敗戦のことなんか誰も考えなくなった。そして、90年代にバブルが崩壊したあと、ふと気づいたら日本が「暗く」なっていた。それは直接的に「金がなくなった」からではないと思います。だって、バブル崩壊からさらに20年間、日本は世界第二位の経済大国であり続けたんですから(中国にGDPで抜かれたのは2010年のことです)。お金はあったんです。でも、社会はどんよりと暗くなった。
僕はその頃から「敗けてよかったじゃないか」という気分が失せて、「日本がこんなふうになったのは、すべて戦争に敗けたせいだ」という恨みがましい気分が社会全体に瀰漫したせいではないかという気がします。そんなこと僕の他に言う人はいませんけれど、さっきの「中央年齢リスト」を見て、ふとそう思ったのです。
「自虐史観」という言葉が出て来た頃に日本が「どよん」と暗くなったような気がします。もちろん「自虐史観」が社会を暗くしたわけではありません。逆です。彼らは日本社会の根っこの部分にある種の致命的な「弱さ」を感じ取って、その原因が「敗けてよかったじゃないか」というなげやりな言葉で敗戦経験を総括したことにあると感じた。そして「そういう考え方は自虐的だ」と言い出したのです。
歴史修正主義者の中に戦争経験者はいません。これはドイツでもフランスでも同じです。子どものときに敗戦を迎えた人はいますけれど、徴兵されて戦場に立った、空襲の中を逃げ惑ったという経験をもつ人はいません。実際に戦争で死ぬ覚悟をしていた人たちは、戦争が終わって、自分たちを戦場に送り出すシステムがなくなったことに深く安堵した。たしかに、祖国の敗北は悲しいことですけれど、それより自分自身や自分の愛している人たちががもう死なずに済むことの方がうれしかった。だから、戦争体験者にとって敗戦は屈辱でもトラウマ的経験でもなかった。
ところが、敗戦をリアルタイムで経験していないその後の世代には、敗戦を端的に「よいこと」として肯定するような個人的根拠がありません。敗戦の玉音放送を聴いて、ぼんやりと青空を見て「もう死なずに済んだ」と深い嘆息をついたような経験がありません。
この「敗戦の報を安堵感のうちに経験した」かどうか、その経験の存否が、実は大きな世代的断絶を敗戦国民にもたらしているということはないのでしょうか?
僕たち戦後世代にとっては「経験の欠如」という経験です。
いまの自分たちの社会の根本的なかたちを決定した歴史的大事件でありながら、敗戦のときに何があったのか。GHQは敗戦国日本をどう変えようとしたのか、そのためにどのような工作があり、密約があったのかについて、僕たちは「公式の歴史」というものを共有していない。戦中派の大人たちは、そのことについてはかたく口を噤んでいた。
どうして、どんなふうに敗けたのか、どうして敗戦国日本は「こんな国」になったのかについて、納得のゆく説明を聞かされないままに、僕たちは今も「戦勝国」アメリカの属国身分に甘んじ、日米地位協定という「不平等条約」を呑まされ、国土を外国軍が我が物顔に歩き回るのを指を咥えて見ていなければならない。中国や韓国や北朝鮮はことあるごとに日本が戦前戦中に彼らの土地でどれほど非道なことをしたのか、それについて反省と賠償を求める。戦争を始めたのも、戦争に敗けたのも、僕たちじゃないのに、敗戦国民としての道義的責任と政治的責任だけは「時効なし」で僕たちに負わされる。
この敗戦国民であることのもたらすフラストレーションを、敗戦を成人で経験した世代は知らなかった。でも、敗戦の解放感や安堵を経験していない世代には、このフラストレーションは恐るべき毒性を持っていた。
同一経験の世代による受け止め方の違いということを、僕たちは過小評価していたのではないか。そんな気がします。
戦中派には実際に自分たちが戦争中に占領地で「非道なことをした」という実感がありました。僕の父は中国との国交回復のあと、日中友好協会に入会して、たくさんの中国人留学生を家に迎え、保証人になり、金を貸しましたが、その理由を母親に問われたとき、「われわれは中国人には返しきれないほどの借りがあるのだ」と言っていました。
「あなたがたにはほんとうに申し訳ないことをした。償わせて欲しい」と中国人に向かって告げることは父にとっては苦痛ではなかった。むしろ贖罪の機会を得たことをありがたく思っていたように僕には見えました。
でも、僕らは違います。侵略して、非道なことをした記憶もない。戦争が終わってほんとうによかったという実感もない。にもかかわらず敗戦国民としての戦争責任だけはエンドレスで追ってくる。
敗戦について、僕たちの世代が取り得るスタンスは二つしかありません。「戦争にかかわるすべての責任をわれわれは引き受け続けます」と戦中派にならって首を垂れ続けること。アメリカにも中国にも韓国にも台湾にもフィリピンにもインドネシアにもベトナムにもオランダにもイギリスにもオーストラリアにも、行く先々で謝り続けることです。こちらが「政治的に正しい」作法です。
そして、もう一つは「知るかよ、そんなこと」と居直ること。「あれはよい戦争だった」とか「あの戦争についてアジア民衆は日本に感謝している」とか「あの戦争に日本は実は勝っていたのだ」というようなでたらめを言い募って、戦争責任をまるごと放棄すること。こちらは「政治的に正しくない」作法です。
そのどちらかを選ばなければならない。
でも、そんな選択肢は敗戦をリアルタイムで経験した世代には突きつけられていなかった。さくっと「敗けてよかったじゃないか」で済んだ。これは彼らの後から来た世代にとってだけ切実な問いなのです。
加藤典洋・高橋哲哉の間の『敗戦後論』をめぐる論争があったのは、1995年です。メディアを賑わせて多くの人が賛否の立場で発言した論争でした(僕の『ためらいの倫理学』という物書きデビュー作は『敗戦後論』の書評を核にして編まれたものでした)。そのとき、論争に熱狂していたせいで、「どうして今になって敗戦が問題になるのだ?」という問いだけが誰によっても立てられなかった。
この論争のもう一つの歴史的意味は、敗戦をどう受け止めるかについての国民的合意が、それまでは無言のうちに日本国民に共有されていたけれど、それが95年頃に失われたということではないかと僕は思います。
95年頃に、僕たち戦後世代は、敗戦に向き合うときに「政治的に正しい」作法か「政治的に正しくない」作法か、どちらを選ばなければならないというきわめて定型的でストレスフルな選択を迫られるようになった。加藤典洋はそれに対して「第三の道」はないのかという提案をした。「第三の道」を見つけないと、日本人がもう一度「明るく」なることはできないのではないか、彼はそう考えたように僕には思われます。「政治的に正しい道」も「政治的に正しくない道」も、どちらも日本人を深く疲弊させ、日本人の思考を停止させ、遅速の差はあれ、いずれ国力を蝕んでゆく結果しかもたらさない、そう思ったのではないか。でも、加藤の努力にもかかわらず、敗戦経験・戦後経験についての国民的合意は今にいたるまで達成されていません(それを独力で果たそうとした加藤典洋は先日志半ばで亡くなりました)。
僕はこれと同じようなことがすべての旧枢軸国が起きたのではないか・・・という気がしたのです。
どの敗戦国でも、ある時期までは「敗けてよかった」という実感が支配的であった。人々は貧しいけれど明るく、日々はつらいけれど明日に希望があった。だから、子どもが生まれた。でも、ある時期から「つらいけれど、倫理的な責務に耐えるべきだ」派と「うるせえな。倫理なんて知らねえよ。俺は絶対謝らないからな」派に国民が二分された。日本における左翼リベラルと右派ネトウヨの分断はまさにその通りのものですが、ドイツでも、イタリアでも、ほとんど同じような国民分断が起きていると思います。どちらの道を行くにせよ、「笑顔がなくなる」ことだけは一緒です。
「リンゴの唄」と闇市の人たちの笑顔は「敗けた代わりに手に入れたもの」がもたらしたものです。でも、僕たち敗戦から数十年経った敗戦国民には「敗けた代わりに手に入れたもの」がありません。「敗けたせいでさらにこれからも失い続けてるもの」だけしかない。
その虚無感が敗戦から一定期間が経ったあとの敗戦国民の「暗さ」を作り出している。そのせいで敗戦国民は自己肯定感をもつことができない。自分の国に対して、その「ありのまま」に対して物静かな敬意や、控えめな誇りをもつことができない。何か細工を加えて、装飾して、別のものに仮装してみないと「自分の国」を取り扱うことができない。
それがたぶん敗戦国民が敗戦から一定時間経ったあとに罹患する病なのではないかと思います。
国民が構造的に「自己肯定感の欠如」に苦しんでいる以上、子どもが生まれるはずがない。 それが中央年齢の病的な上昇として結果しているのではないか・・・というようなことを僕は先ほどの中央年齢リストを見ながら考えたのでした。
だからどうした、だから、どうすればいいのか、というような話では別にありません。何となく、そう思った、というだけのことです。
戦争というのは、それが終わってから何十年も、場合によっては何百年も、それにかかわった人々とその子孫たちにとってある種のトラウマとなり続けるという「言われてみれば、そうかも知れない」というような話です。
どうして時事的なことを話すと「暗く」なるのかの理由について個人的な仮説を立ててみました。仮説を立てからと言って、ただちに気分が明るくなるというものではありませんが、それでも「暗さの原因」が分かると、「じゃあ、次に打つ手を考えてみようか」という気分に少しはなるんじゃないでしょうか。
はい、長い話にお付き合いくださって、ありがとうございました。
最後になりましたが、出自さまざまなテクストを選択、配列して、リーダブルな書物に仕上げてくださいました毎日新聞出版社の峯晴子さんにお礼申し上げます。ありがとうございました。
2019年6月
内田樹
(2022-12-12 10:01)