夏休みになると、教員たちの研究集会が各地で開かれる。今年はこれまでに二つの大会に招かれて基調講演をした。一つは全国作文の会、一つは東北六県の教育研究集会である。教育関係の集会での講演がこの夏はまだあと二つある。もう年なので遠方への旅は身体的にはきついけれども、教育関係の講演依頼はできるだけ引き受けるようにしている。
お座敷が多いのは、たぶん私が現場の教員たちに「もっとがんばれ」と言わない数少ない人間だからだと思う。教師たちはもう十分にがんばっている。過労死ラインすれすれで働いているのに、それでもなお文科省や教委や保護者やメディアからは「努力が足りない」と批判され続けている。それでは教員のなり手が激減するのも当然である。
私は教員の方たちには「無駄な仕事はする必要ない。ほんとうに大切なことだけに全力を集中した方がいい」と言うことにしている。「ほんとうに大切なこと」とは、子どもたちを笑顔で学校に迎え入れ、ひとりひとりに「ここが君のいる場所だ」と保証して、「私は君がここにいることを願っている。だから、どうかここにいて欲しい」と伝えることである。子どもたちを歓待し、承認し、祝福することである。それができたら教師の仕事としてはもう満点だと私は思う。それ以外のことは、教科を教えることを含めて、会議やペーパーワークや評価や査定は、どれも副次的な業務に過ぎない。
教育の本質は自学自習である。子どもたちの中で「学び」への意欲が起動したら、正直言って、もう教師の仕事は半ば以上終わりなのである。後は「読みたい本がある」と言われたら手に入れ、「したいことがある」と言われたら準備し、「会いたい人がいる」と言われたらなんとか手を尽くして紹介する。それくらいである。
たいせつなのは子どもたちの中に「学びたい」という思いが発動したときに、それを見逃さないことである。いつ、どういうきっかけで「学びへの意欲」が発動するのか、それは予測できない。それでも、経験的にはいくつか効果的な方法が知られている。教師はそれを愚直に繰り返すだけである。
子どもたちのうちで「学びへの意欲」が発動するきっかけは予測不能である以上、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式がもっとも効率的だということである。「こうすれば必ず子どもたちの知的欲求が亢進する」というような魔術的な解は存在しない。「ある」という人が時々いるが、もしその人が「だから金を出せ(あるいは私を崇拝しろ)」と続けた場合には、決して信用してはいけない。子どもたちの個性がこれだけばらけている以上、単一の「オールマイティのカード」などあるはずがないからだ。
私たちが教える側としてできるのは、できるだけ多様な教育理念を持ち、できるだけ多様な教育方法を駆使する、できるだけ多様なタイプの教員を子どもたちの前に並べて見せることだけである。どの教師が子どもたちに「フック」するのか分からない以上、これが一番「取りこぼし」のリスクが少ない。
それでも、どんな教師であれ、「子どもたちを歓待し、承認し、祝福する」ことが教師の本務だということについては私は譲らない。そんなことはしたくない、できないという人間は教壇に立つべきではない。
私が教員たちにするのはだいたいそんな話である。教師たちは別に有用な知識や技能を教えるためにいるのではない。会議をしたり、報告書を書いたりするためにいるわけではない。子どもたちの成熟を支援するためにいるのだ。その仕事を愚直に行えば、必ず報われる。
そう言うと多くの教師たちは深く頷いてくれる。
(2022-11-13 10:32)