「親切な人」になろうと心がけている。それが社会人として最もたいせつな資質だと思うからである。長く生きてきて、それは深い確信として内面化している。
でも、私は生来親切な人ではなかった。若い頃は、一度として周りの人間から「内田君は親切だね」と言われたことがない。
それも当然で、私は久しく「親切」というのは「背が高い」とか「視力がいい」とかいうのと同じような生得的資質だと思っていたからである。たしかに「親切な人」が傍らにいると周りの人にはいいことがある。席を譲ってくれたり、ご飯を分けたししてくれる。でも、それは親切な人ご自身には特段の利得をもたらさない。親切な人はただ与えるだけで、何も得ない。だから、親切でない人間が無理してまで親切な人間になろうとすることにインセンティブはない。私はそう考えていた。
考えが変わったのは、ずいぶん年を取って、知命を過ぎた頃である。その頃にこんな文章を読んだ。
文学において、最も大事なものは心づくしというものである。心づくしといっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし「親切」といってしまえば、身もふたもない。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言ってもまだぴったりしない。つまり「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、あるいは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。
(太宰治『如是我聞』)
この文章を私は若い頃にも読んでいたはずだけれど「文学にとって本質的なのは心づくしだ」という話が、二十歳の私に理解できるはずもなかった。でも、今はこの太宰の言葉はしみじみ身に浸みる。
この短い引用を読むだけでも、太宰が何かを「言い切る」ことを必死で避けようとしていることはわかる。「心づくし」というキーワードを思いついたのだが、それで止まらずに「親切」「心趣」「心意気」「心遣い」と次々と言い換えてゆく。だが、どれも「ぴったりしない」。仕方なく次は「文学の永遠性」を「文学のありがたさ」「うれしさ」「そういったようなもの」とまた言い換えてみるが、どれも「ぴったりしない」ので、この話題も途中でぶつりと終わる。
でも、この文章そのものが「心づくし」のみごとな実践例なのだと私は思う。それは言い切らないこと、決めつけないことである。太宰は文学においては何かを言い切るということはしてはならないと考えていた。一応は言い切り、どこかで句点を打って文章を切らなければならないのだけれど、それでも「言い換え」や「言いよどみ」や「前言撤回」に開かれていなければならない。太宰はそう考えていた。
思えば、太宰の小説はどれもそうだった。何かを言ってから、すぐにそれを取り消す。『晩年』は「死のうと思っていた」から始まる。けれども、すぐに夏に着る麻の着物の反物をもらったので「夏まで生きていようと思った」と翻意する。『桜桃』は「子供より親が大事、と思いたい」で始まる。五・七・五になっているのは「真面目に聴くなよ」という著者からのメッセージである。
太宰はふざけているわけではない。必死なのである。正直でありたいと、誠実で、公正でありたいと思っている人間は気がつくとこういうふうな言葉づかいになる。これが「親切の骨法」だということに気がついた。あるいは創造とは親切の効果なのかも知れぬ。そう思ってから「親切な人」になろうと決めた。
まことに功利的な理由による転身だが、人に「親切ですね」と言われるようになった頃から、言葉がいくらでも湧き出すようになった。ただ、親切な人の話は必ずわかりにくいものになるのが難点だが。
(2022-09-01 11:16)