共感にあらがえ

2022-08-14 dimanche

はじめて永井陽右君に会ったのは朝日新聞のデジタル版での対談だった。もう3、4年前だと思う。ひさしぶりに「青年」というものに出会った気がした。デジタル版だったので1時間半くらいの対談内容がそのまま掲載された。それを再録しておく。

永井:私は仕事としてテロ組織から降参した人のケアや社会復帰の支援などをやってきました。しかし、国際支援の分野での対象者や対象地に関する偏りがどうも気になっていて。難民だとか子どもだとかそういう問題になると情動的な共感が生まれるのに対して、「大人で元テロリストで人殺しちゃいました」とかだと、それがまるで真逆になる。抱えている問題が同じだとしても、「なんでそいつまだ生きてるんですか?」て話になってしまう。そこが問題意識としてもともとありました。
今の日本社会をみると、共感がすごくもてはやされていて、その状況に違和感を持っています。ただ同時に、「共感」の欠点を自分のなかで考えていくなかで、「そもそも共感するかしないかは自由だな」ということにも気が付きました。となると、「共感しない自由」をどう考えればいいんだろう、というのが私のなかで課題になってきました。
 みんなが「共感しない自由」を行使することによって、「共感されない人」が生まれてしまうとしたら、そのときに生まれる問題を私たちはどう捉えればいいのか。
 私は「共感するかしないかではなく、誰しも人権はあるのだから、テロリストで殺人を犯した人でも支援される必要がある。そのことを理性を使って理解することが重要なんだ」と思っていました。しかしカント倫理学の御子柴善之先生とお話ししたときに、御子柴先生は「理性と、個々人の持つ倫理・道徳は別ですよね」とおっしゃっていたんです。その話にはなるほどな、と思うところもありました。
そのあとロバート・キャンベルさんともお話ししたのですが、「永井さんは『共感されない』ということを問題にしているけれど、逆に私のようなゲイであることを公言している人間に対して、当事者でもないのに『共感します』なんて言ってほしくもないし、そういった安易な共感自体も問題を生んでいます」と指摘されて、そこでもなるほどとなりました。
 そこで内田先生に、この「共感しない自由」をどう考えていけばいいのかを、内田先生に伺ってみたいなと思いまして。

内田:たいへん本質的な問いをされていると思います。永井くんのような若い方は、そういうふうに問題を立てて、悩んでしまうものだと思います。ことを原理の問題として考えてしまうんですよね。永井くんはこう考えているわけですよね。「理念上はすべての人たちを等しく支援をしなければいけない。しかし、現実には、『この人は支援するけれど、この人は支援しない』という選別をしている。どちらかが正しいのか?」と。
 結論から言うと、そのどちらでもないということになります。問題を解決するスキームを作るときに、僕たちはまず極端な原理を両側におきます。その場合に設定される原理というのはあくまで問題を解決するための操作概念であり、いわば思考のための装置なんです。
 実際に僕たちができることは、その両極端の理念の間にあります。人間一人が使うことのできる時間や体力やお金やネットワークにはおのずと限度があります。そして、その手持ちのリソース以外には使えるものがない。だから、どこにそれを向けるか、優先順位をつけるしかない。すべてに等しく分配することはできないんです。手持ち資源の分配の優先順位については、万人に妥当して、万人が納得するような客観的な基準は存在しません。だから、どんなふうに分配しても、必ず不満が残る。「やるべきことを、やるべき順序で行ったので、これでパーフェクト」ということは絶対に起きないんです。でも、僕はそれでいいと思う。地球上の70億の人に対して等しく敬意を抱いて、等しく支援するということはできません。手の届くところから支援するしかない。でも、「手の届くところから支援する」ことが正しいわけじゃない。もし「俺は好きな人しか助けない。嫌いな人のことは無視する」と公言する人がいたら、それはいくら何でも非常識だと思います。でも、その人に向かって、「君は間違っている」と非難することは僕にはできない。たしかに、非常識だし、人としてどうかとは思うけれど、「間違っている」とは言い切れない。それで仕方がないと思うんです。不人情とか狭量とかいうのはたしかに人として物足りないけれど、叱責や処罰の対象ではない。世界のすべての人を同時に支援するほどの力はないけれど、身近な人にしか支援が届かないのは悔いが残る。それでいいと思うんです。100%うまくいったということもないし、100%失敗だったということもない。僕たちはその両極端の中間のどこかにいる。両極端の間に拡がるグレーゾーンの中で、自分の力量に見合ったところで仕事をするしかない。

永井:うーん、なるほど。理性や人権という「原理」ではなく、「不人情」とか「常識」で考えたほうがいい、と。
 私が思うのは......たとえば学校の休み時間に、「よっしゃ遊びに行こうぜ!」って言っている人がいる一方で、「私たちはおしゃべりしましょうね」って言ってる人もいるとします。そのときは、みんなが自由意志に基づいて行動しているわけですよ。
 でも、その教室のなかでポツンとひとりぼっちになってしまう人がいた場合、それって誰の責任なんだろう? と思うんです。そのひとりぼっちの人が「一人は寂しい。寂しいけど誰にも言えない」と感じていたら、それは問題だと思うんです。じゃあその問題の解決って、誰がやるべきなんだろう? と考えてしまう。みんなが「共感しない自由」があるなかで、問題がぽつんと起きてしまったとき、どうすればいいのかな、と思って。

内田:その「ひとりぼっちの子」というのが、永井くんの場合だと、誰にもかわいそうと思ってもらえない、誰にも共感してもらえない元テロリストだったりするわけですよね。たしかに「テロリストには共感できない」というのは人情としては自然だと思うんです。それでも、ひとりぼっちで寂しい思いをしている人を見たら、つい手を差し伸べてしまうということもまた人情としては同じように自然だと思うんです。そして、僕はこの「つい手を差し伸べてしまう」ということが倫理の一番基本にあると思う。「惻隠(そくいん)の情」だと思うんです。

永井:惻隠の情、ですか。

内田:惻隠というのは、たとえば幼い子どもがよろよろと歩いていて井戸に落っこちそうになっている時に、思わず手を伸ばして助けてしまうということです。この子を助けたら、後から親に感謝されるだろうとか、助けなかったら周りのやつから後から「非人情だ」と罵られるかもしれないとか、そういう計算をするより先に思わず手が出てしまっていた、というのが惻隠なんです。何も考えないうちに、支援を求めている他者の訴えに身体が自動的に反応してしまう。それが人の道の基本だと『孟子』には書いてある。
 この時に、とっさに手が出るのは、相手が無力な子どもだからですね。これががっしりした身体の大人だったら、そんなに自然には手が出ないかも知れません。井戸に落ちるなんてバカなやつだな。おい、誰か手が空いているやつがいたら助けてやれよ、くらいのリアクションかも知れない。惻隠の情が発動するためにはそれなりの条件があるということです。
一つは、「自分から見て弱者である」ということです。もう一つは、「自分の力の範囲内で救うことができると思える」ということです。その条件が整えば惻隠の情は自動的に発動する。でも、相手が自分より強者であったり、とても自分の力では救えないような状態の場合には「思わず手が出る」ということは起きない。

永井:それは「本能的な反応」みたいなことなんですか?そうした瞬間では頭で考えるよりも前に体が動いたというのはたしかにありそうではあります。

内田:永井くんの場合だと、目の前の元テロリストの青年を見た時に、彼が「井戸に落ちかけた子ども」に見えてしまうんだと思います。だから、手を差し伸べる。でも、誰の眼にもそう見えるわけじゃない。ふつうの人にはそんなふうには見えないかも知れない。
 だから、目の前にいる人を支援する気になるかならないかは、多分に永井くんの個人的な能力の高さによって決まるんだと思います。ソマリアのギャングがいきなり手に銃を持って出てきたら、恐怖や嫌悪感が先立つでしょう。それが「井戸に落ちかけた子ども」に見えるというのは、かなり例外的なことだと思います。

永井:じゃあもし、教室の中でひとりぼっちで取り残された人が、自分から見て弱者ではないし、自分の力の範囲内で救うことができるとも思えないし、なんならついでにたとえば嘘ばかりついて、万引きもして、人殺しもしていて、誰も「共感」してくれない人だったら、「惻隠の情」は発動しえないということになるのでしょうか。逆に言えば、自分から見て弱者であり且つ自分の力の範囲内で救うことができるとどんどん思えるようになっていけば、惻隠の情をより多く発動させることができるということですか?

内田:それは「感情の器」の大きさによるんだと思います。誰かが一人でポツンといるのを見ても、何も気にならないという人もいるし、胸がいっぱいになる人もいる。胸がいっぱいになった人は功利的な計算抜きで、ふと「一緒に遊ばない?」とか「なんで君、いつも一人なの?」と話しかける。それは相手にすっと伝わると思います。作為がないから。一人ぼっちの人は、近づく人にわずかでも作為や計算を感じると心を閉じますから。でも、作為なしに手を差し伸べられると、ふっと虚を突かれてしまう。
 人の本質を見抜く人だと、どれほどごつい外見で、攻撃的な人間が来ても、その人の心の中に「ひ弱な赤ちゃん」がいるということが見えてしまう。だから、その「ひ弱な赤ちゃん」が怯えていたら、つい手を差し伸べてしまう。それが「人を見る目」ということなのだと思います。
 目の前にいる人の傷つきやすさ、壊れやすさが見えるというのは、人の感情の器の大きさによると思うんです。感情の豊かさは先天的なものです。眼が良いとか、背が高いとか、鼻が利くというのと同じで、先天的なものです。生まれつき感情の器が大きい人がいる。そして、そういう人がすっと手を差し伸べる時の心情というのは、いわゆる「共感」とは違うものだと思いますね。

永井:それは共感ではないとしたら......何と言ったらいいんでしょう?

内田:「感情の器が大きい」という言い方でいいんじゃないかな。努力してそうしているわけではないし、義務感からそうしているわけでもない。自分の感情の動きに素直に従っていたら、すっと手を差し伸べていたんですから。感情の器には大小があって、それはほぼ生まれつきなんです。感情の器の小さい人に対して「器を大きくしろ」って言っても無理だし、器の大きい人に「小さくしろ」って言っても無理です。一人ひとり、おのれの感情の器に従って、相応のことをすればいいと思う。

永井:となると、たとえば、大変そうなホームレスの方と遭遇した際のように道徳心を問われる状況に置かれたとき、自分がもし感情の器が小さければ、そこで即座に反応できずスルーしてしまうわけですよね。スルーしてしまう自分にちょっとモヤモヤするけど、実際の行動としての手助けはできない。この状況をどう理解すればいいんだろう、と思ってしまうんです。自分の感情の器が小さければ仕方ない、大きい人が何かやればいいんだ、ぐらいの気持ちでいればいいんでしょうか。生得的なものだから小さければしょうがないよねとなるのはそれはそれで引っかかる気もします。

内田:それはしかたがないと思います。自分の中から湧き出す内発的なものですから、頭で統御することはできない。頭で考えたことは「これこれのことをしなければならない」という文型を取りますけれど、感情の動きはそうじゃない。気がついたら、もう動いていた。そして、それは感情の器で決まる。それで人の倫理性の優劣を論じてもしかたがない。誰でも一人ひとり個人的な限界がある。その能力の範囲内で、できることをすればいいんです。
 でも、それはいやだ、どうしてもすぐに行動できるようになりたいというのだったら、「困っている人を見たら、すぐに人助けをしなければならない」という既製の倫理を外装するという手もあります。宗教であったり、政治イデオロギーであったり、そういう出来合いのものを外付けすることはできます。キリスト教徒になったり、人権派になったり、マルクス主義者になったり......「利他的な行為」を当為として掲げているそういう枠組みの中に身を投じる。そういう枠組みの中では、人を救うための理論や作法が決められている。それを根拠づける体系的な論理があって、具体的な作法がある。歴史的にも十分な成功事例の蓄積がある。それを外部装着することはできます。実際に、そうしている人はたくさんいるし、実際に有効なんです。
 ただ、「外付けされた惻隠の情」にはいろいろと無理がある。たとえば、キリスト教も弱者への愛から始まった宗教ですけれど、キリスト教の名においてこれまで多くの人が死んでいった。殉教した人もいるし、背教者・異教徒として殺された人もいる。その歴史的事実は否定できません。マルクス主義もそうです。被抑圧者に対する憐憫と共感から始まった政治思想ですけれど、マルクス主義の名の下でも多くの人が死んだ。
「万人を愛する」という倫理は個人が内発的に支え切れるものではありません。だから、「ありもの」を外付けするしかない。でも、外付けされた倫理はしばしば歯止めが利かなくなる。内発的な倫理は「人として」というしばりがあるけれども、外装された倫理は感情や身体による規制を受けつけずに暴走することがある。

永井:私がもともと思っていたのは、全人類に「人権の侵害はどんなケースであっても抑止しなければいけない」ということを改めて周知し、どうにかそれが実現できるように公も含めやるしかないんじゃないか? ということでした。人権教育というとなんだか大変浅いですが、外のものをガチャッと装着するケースとして「人権教育的なものをしっかりしていく」というのは、例としてありえるんでしょうか?

内田:いま永井くんが「教育」と言っているのは「学校」を想定していると思うんだけど、僕は人の生き方は学校では教えられないと思う。人権教育は学校で教えてくれと思っている親がいるかも知れませんけれど、それは無理筋だと思う。「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
 前に、元SEALDsの奥田愛基くんに会って話した時に、半分ぐらいがお父さんの話だった。彼のお父さんは奥田知志さんという牧師で、長くホームレス支援をしてきた人なんです。父親が家の中に知らないおじさんを連れてきて、「この人、あそこの公園にいたホームレスの人だけれど、今日からうちに泊まるから」というようなのが日常という家で彼は育った。だから、困っている人を支援するのが当たり前で、それをするために何らかの理論的な基礎づけや、イデオロギーを動員する必要がない。永井くんも家風の成果なんじゃないですか?

永井:家風ですか...。いや、私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。

内田:全然、人権派じゃないね(笑)。

永井:父親が単身赴任先から帰ってきたら母親があることないこと全部盛って言って、そのレポートをもとに父親が怒るわけです。もちろん私もそれに対して反抗します。「こういう大人になったら終わりだな」と思って、まあ反面教師ですよね。「誰の金で飯食ってるんだ!」とか言われ続けてましたし。もちろん私も問題児では確実にありましたけど。

内田:「誰に食わせてもらっているんだ」というのは親が絶対に言っちゃいけないやつですね。僕自身はほとんど親と喧嘩したことがないんです。なんだかこの人たちと考え方、生き方が違うかも知れないと感じたところで早々と家を出てしまったので。相手を説得できるとも思わなかったし、説得されるとも思わなかった。だから、ぶつかって、傷つけ合っても仕方がないから、すっと離れた。
 倫理を身に着けるとしたら、実際に、その規範に従って自然に生きている人を見て、その謦咳に接するということを通じてしかないのかも知れないですね。
 今度、学校教育で「道徳」が教科化されましたけど、教える先生自身が道徳的な人であって、その立ち居ふるまいから「人のあるべき姿」が滲み出て来るというのであれば、道徳教育も成り立つでしょうけれど、教える先生自身が特段道徳的な人ではないという場合には、教科書を使って道徳を教えることは不可能でしょう。

永井:つまり「マザーテレサはこんな人でした!」ということを教えるだけでは、道徳や倫理は教えることができないわけですよね。たしかにどれだけマザーテレサマニアだったとしても道徳的の程度には大して関係ない気はします。

内田:何の影響もないと思います。まあ、なかにはそれを読んでスイッチが入っちゃう人もいるかもしれないけどね。人倫って、やっぱり生きている人を見て、それに感化されるものですから。

永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
 じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。

内田:人権原理主義になってしまったんですね。

永井:だからホームレスの方が実際に目の前で苦しそうにされているときに、「一時的なケアだけでいいのか」と思ってしまうし、「長期的なケアをするのであれば、でも500人とかホームレスがいるから、どうするべきか......」ということを考えてしまって、結局そそくさとその場を立ち去ってしまう。で、そのことが恥ずかしいわけです。なんなんだ自分は、と。

内田:そういう場合に「ホームレスを支援するのは行政の仕事でしょう。そのために税金払ってるんだから」って言って平気で通り過ぎることのできる人もいるだろうし、「参ったなあ。本当は自分が何とかしてあげなくちゃいけないんだけれど、でも急いでるし......」といって内心に葛藤を抱える人もいるでしょう。僕はそれでいいと思うんです。立ち止まって支援することはできなかったけれど、ほんとうは仕事を放り出しても支援すべきじゃなかったのか...と葛藤するというのは人として自然なことであって、人間はそうやって倫理的に成熟してゆくんですから。
 僕の哲学上の師匠はエマニュエル・レヴィナスという哲学者なんですけれど、レヴィナスは社会的公正の実現は政府に全面的委ねてはならないということを言っています。スターリン主義のソ連においては、社会正義を実現する責任と権限はすべて国家に与えられた。市民たち一人ひとりは社会正義を実現する義務を免除されたし、自己判断で社会正義を実現する権利も奪われた。だから、目の前で困っている人がいたら、行政に届け出て、「助けてあげてください」と言えばいい。自分の身銭を切ることがない。
 スターリン主義は善意から出発したけれど、倫理的に退廃したとレヴィナスは言うんです。正義や平等の実現を国家が担うシステム内では、市民たちは道徳的にふるまう必要がなくなる。
 それは神さまが完全に世界を支配している世界と同じです。神さまがすべてを見ていて、善い行いには褒賞を、悪い行いには処罰を間違いなく与えるというシステムだったら、人間は善行をしたり、悪行を咎めたりするインセンティヴがなくなる。飢えた人が目の前にいても「神さまがなんとかしてくれるからいい」となるし、目の前でどんな不正が行われていたも、「悪人はすぐに神さまに罰せられるから、自分は何もしなくていい」となってしまうから。公的なものや超越的なものが個人に代わって正義と慈愛を実現してくれる社会では、人間はそれを自分の仕事だと思わなくなる。
 だから、人権が守られる社会を作ることはとても大切なんですけれど、公的機関によって人権が完全に守られる社会では、個人は他人の人権のことを配慮する義務を免除される。人権のことを考える必要もなくなる。その逆説も頭に入れておいた方がいいと思います。

永井:たしかに、私も「葛藤している方が真摯なんじゃないか」ということは、なんとなくわかりますし思ってもいます。でも、自分がいくら葛藤したところで問題はずっとそこにあり続ける。その問題を、私はどう捉えればいいんだろうと考えざるを得ません。物事が良くなるには百年、千年かかる。「一歩ずつよくなってればいいじゃないですか」ということを言われたりもします。それはとてもよくわかる反面、社会が良くなるためにも千年かかりますってときに、その問題に対して「仕方ないよね」で片付けるのも納得がいかないというか、それでいいんでしたっけ?と素直に思います。

内田:いやいや、片付けちゃいけないんですよ。葛藤するというのは、納得がゆかないということなんですから。

永井:でも、いくら葛藤しても実際にその問題を解決できなければ意味がないのでは、とも考えるわけです。今ここで、その問題の解決を考えているわけですし。

内田:これはソクラテスが言っていることなんですけれど、僕たちはその解法が分かっているものは「問題」としては意識しない。逆に、解法がまったく思いつかないものも「問題」としては意識されない。僕たちが「問題」だと思うのは、その解法がまだ分からないのだけれど、これから時間をかけて取り組んでゆくといずれ解法がわかりそうな気がするものだけなんです。だから、永井くんがあることを「問題だ」と考えているということは、指先が解法に手が届いているという実感があるからなんだと思う。どうやって解けるかはまだわからない。でも、時間をかけて、経験を積んでゆけば、わかりそうな気がする。そういう状態にいるんだと思います。
 永井くんがホームレスを見て葛藤するのは「自分の力の範囲内でこの状況をなんとかできるかもしれない」と思っているからなんですよ。解決する手立てがどこかにある「ような気がする」。解決の可能性を直感している。まったく自分の手には負えないと思っていたら、そもそも視野に入ってこない。まったく無力な人間は自分のことを「無力」だとさえ思わない。「自分には力が足りない」と思うのは実は多少は力があるからなんです。
 永井くんがこれから力を付けてゆくと、いずれなんとかなるかも知れないということを直感的には確信しているんです。今は「どういう力を身に着けたらこの問題は解決できるのか」を考えてゆけばいい。そんなに急がなくていいんですよ。

永井:ソマリアは当時、「比類なき人類の悲劇」だと言われていたんですが、同時に「地球で一番危険な場所」とも言われていました。なので特に日本なんかではほとんどの大人たちがソマリアなんて無理となっていて、「英語話せるようになれ、専門知識つけろ、10年は経験積め」なんてことを話を聞きに行った大人たちに言われていたんです。それはたしかにそうなのかもしれない。でも、じゃあ「自分はその10年間どの面下げてソマリアを見ていればいいんだ」と思った。そもそもそれらを持ってる大人たちが危険だの金がおりないだのでやらないわけですし。なので、結局問われているのは姿勢だなと考えるに至りました。

内田:個人としての限界があるから、そこのところは折り合いをつけるしかないと思いますよ。死んだら身も蓋もないから。永井くんがもし、この世に少しでも善を積みたいと思っているなら、「長生きする」ってこともけっこう大事な仕事ですよ。

永井:葛藤しつつ、とかく瞬間瞬間ベストを尽くすということなのかもしれません。問題解決への文字通りのベスト。とはいえ実際にはなんだかなあと思うのですが、「じゃあ今この瞬間に世界にあるすべての人権侵害と紛争をなくしてみろよ」と言われても、恥ずかしながらできないのも事実ではあります。だからこそ、恥ずかしいと思いながらも、少しばかり先のことも見据えて、ベストを尽くす必要があるのかもしれないと思いました。
少し話が戻るのですが、内田先生のおっしゃる「感情の器」って、「人を見る目」「ものを見る目」でもあるとのことでしたけど、それって理性ともまた違うんですか?

内田:理性とは違いますね。やっぱり「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。

永井:「感情の器」を大きくするのって、「外付け」や家風以外でできたりしないんですか?というのも、外付けが嫌だったり合わない人もいれば、家が崩壊している人もいるでしょうし。

内田:「とにかくこの人は器が大きい」と思う人のそばに行って、弟子入りしたり、友達になればいいんじゃないかな。自分の器をちょっとでも大きくしたいと思ったら、実際に器の大きい人に親しむしかないと思います。「器の大きい人ってこうやって息するんだ」とか「こうやって鼻かむんだ」とか。身近で、その人の所作や物言いを身近に感じて、それを模倣する。それは書物では学べないことですね。

永井:たとえば内田先生は、どうされたんでしょう。

内田:合気道の師匠の多田宏先生と哲学上の師匠のエマニュエル・レヴィナス先生に就いて学んだのだと思います。二人ともほんとうにスケールの大きい師でした。

永井:となると、集団的な知性を高めるためには、たとえばどんなことをすればいいのでしょうか。

内田:普通にしてればいいんじゃないですか(笑)。世の中には感情の器が大きい人がいるということを永井くんを通じて見せるのが一番早道なんじゃないかな。そういう人を見ると、「自分ももしかしたらそうなのかも」って思うから。見たことないと、そうは思わない。
陸上競技でも100メートル9秒台って人間には無理だと思われていたんだけど、一人が9秒台を出すと、走れる人がどんどん出て来たでしょう。高いパフォーマンスを持っている人ができる最良のことは「人間ってここまでのことができるんだ」ということを見せられるということです。それを見て、「じゃあ、自分も」と思う人が出て来る。
永井くんがやっていることもそうだと思う。永井くんを見て、これからアフリカやアジアに支援に入っていく若い人がどんどん出てくると思う。それは永井くんが「できる」ということを見せたから。「こういうことをやってもいいんだ。やればできるんだ」ということがわかると、フォロワーが出てくる。

永井:改めて、「共感」と「惻隠の情」の違いを考えたいです。たとえば数年前にトルコの海岸で、3歳のシリア難民の男の子の死体が流れ着いたということがありました。それで全世界が衝撃を受けたのですが、あれは惻隠の情だったんでしょうか?

内田:ある程度はそうでしょう。小さな子どもだったから。あれがヒゲの生えたおじさんだったらたぶんそこまでの反響はなかったと思います。哺乳類としての我々の本能には「同種の幼生を見たら支援しろ」ということが刻み込まれています。ライオンだって猫の幼獣が来たらおっぱいをあげたりするでしょ。赤ちゃんってすごい可愛いけれど、あれは可愛くしないと生きていけないからなんですよね。可愛いいから周囲に支援される。赤ちゃんを見てみんなが「何とかしてあげたい」と思うのは本能的なものなんですよ。「惻隠の情」って、相手が猫でも犬でも発動するんです。その点が「共感」とは違う。

永井:共感というものには「意識」みたいなものが入ってるってことなんですか? 本能とか反射ではなく。

内田:そうだと思います。共感は本能や反射ではない。だって「この人と共感してる」というのは本人がそう思っているだけじゃないですか。本当に他者と心が通じ合ってるかどうかなんて、自分にも相手にも、誰にも確証できない。だから、共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険だと僕は言っているんです。それよりは、「共感も理解もできないけど、目の前に困ってる人がいたらとにかく助ける」というルールの方が汎用性が高いし、間違いが少ないと思うんです。
でも、人間は本能だけで生きてるわけではない。公正な社会、暴力に屈したり、屈辱感を味わったりしないで生きられる社会を作ろうと思ったら、たしかに「惻隠の情」だけでは足りないんです。それは始まりに過ぎないわけです。孟子も「惻隠の心は仁の端なり」と言っているわけで、そこが出発点なんです。そこで終わっちゃいけない。「赤ちゃんみたいに可愛くない」他者を支援することは本能だけには頼れない。もっと理論的なもの、制度的なもので補強して、足場を作らないと。

永井:足場を作って行っていろんなもので補強するにしても、一番根底にあるのは......。

内田:惻隠の情ですね。

永井:ということですよね。私が思うに、機能的な点で言えば、情動的な「共感」というのは、「かわいそう、涙ちょちょぎれるぜ」というところで止まりがち。内田先生の言っている「惻隠の情」は、アクションまで含んでいるように思えます。

内田:そうです。集団は「弱い者」を支えて、助けるという仕組みの時に最も高い機能を発揮するものなんです。実際に、強者だけの連合を作って、弱者を切り捨ててゆけばわかります。そんな集団はすぐに消滅する。誰だってたまには病気になるし、怪我もするし、いずれ年を取って、他人の介助がないと生きられないようになる。そういう人を「足手まとい」だとして片っ端から排除したら、集団はどんどん痩せ細って、最後はゼロになる。集団でも個人でも、弱者を支援する仕組みをビルトインしていないと存続できないんです。弱者を支援する仕組みをきちんと整備してある集団の方が、そうでない集団よりも強いんです。

永井:原理として「惻隠の情」が機能していることを理解して、そこから積み上げていくしかないのかもしれないですね。

内田:そうです。自分の身内だけにしか共感を持てない状態から、同じ地域のメンバーであったり、国民国家の成員であったり、「同胞」の範囲をだんだん大きくしてゆく。時間をかけてそれを少しずつ広げてゆけばいい。最終的には「生きとし生けるものすべてがわが同胞である」というところまで行けば、宗教的な悟りを得たことになるんでしょうけれども、そこまではなかなか行けません。でも、目標はそこですよね。それをめざして歩み続けて、途中で息絶えても別にそれでいいじゃないですか。

永井:内田先生に聞いてみたいんですが、私たちは「共感」なるものをもっとうまく使えないのでしょうか?惻隠の情は今日初めて知ったのですが、共感は結構社会でキーワードになっていると思い。

内田:僕は「共感」という言葉には警戒心を抱いています。今の日本社会って、「共感過剰」な社会になっているような気がします。共感できる人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションができなくなってきている。

永井:いわゆる「エコーチェンバー」とか「フィルターバブル」と言われている現象ですね。私も全く同感で、すごく気持ち悪いなとも思っています。「共感にあらがえ」の連載を書くに至った一つの問題意識でもありました。

内田:共感を強制するせいで、むしろ個人が原子化していっているように見えます。前に大学で学生にレポートを書いてもらったら、二三人が「私、コミュ障なんです」と書いてきました。「コミュ障」というのは若い世代でよく使われる言葉みたいですけれど、要するに他の学生にあまり高度な共感を感じることができないということらしい。
学生たちって、すぐに「キャー! そうそう!」って、激しく頷いて、ジャンプしてハイタッチしたりしますよね。服がかわいいとか、どこかのケーキが美味しいとかいう程度のことで。過剰に共感しているふりをする。どうも、この自称「コミュ障」学生たちは、それができないことを自分の社会的能力の欠如だと思っているらしい。あんな高度な共感は自分にはできない。あの共感の輪に入っていけない。つまり、あのキャーとぴょんぴょんを「共感している状態」だと思っているわけです。でも、あの作為的な共感の輪の中にいる学生たちも、一人ひとりはかなり孤独なんじゃないかと思いますよ。ああいう演技をしていないと仲間として受け入れられないのだとしたら。
僕の友人が大学で「誰にも言えない私の秘密」というテーマで学生に匿名でアンケートを取ったところ、100人中15人くらいが、「今付き合っている友達が嫌いだ」と回答したそうです。なんだか、わかる気がします。小さな集団のなかで「演技的な共感」を強制されて、どんな話題でも「そうそう」と頷いて、100%の共感と理解を示さなければ仲間ではいられないとしたら、それは心理的にはきわめてストレスフルだと思う。
 そういうことは別に女子学生には限られない。おじさんたちだって、おばさんたちだってやっていることは同じじゃないかな。内心は軽蔑したり、嫌っていながら、表面的には過剰な共感を演じてみせないと、仲間でいられないという状況はかなり危険なことだと思います。それよりは、時々は「すいません、何言ってるかわかんないんですけど......」とか「もうちょっと具体的な例を挙げていただけますか?」とか言っても許されるという方がコミュニケーションとしては健全じゃないですか。別にすべてについて同意しなくてもいいじゃないですか。重要な点がだいたい一致するなら、それで十分に一緒に仕事はできるんだから。
理解も共感もできないけれど、この人は約束は守るし、決めたルールには従うというなら、一緒にチームを作れるし、結構大きな仕事だってできる。100%共感できないと何もできないというより、さっぱり共感できないけれど、一緒に安心して仕事ができるという方が僕はいいと思う。「こういうルールでやりましょう」というコントラクト(契約)を取り決めたら、それをきちんと守るという社会性の方が、べたついた共感よりも、集団で生きてゆく上ではずっと大切だと思います。共感や理解は他者と協動するための絶対条件じゃないありませんよ。
 結婚だってそうですよ。結婚が100%の共感と理解の上に築かれるべきだということになったら大変ですよ。一度ささいなゆき違いがあって、「あ、オレたち気持ちが通じていない」と思ったら、すぐに離婚しなければいけないんですから。そんなことできるはずがないじゃないですか! 僕は、夫婦間で取り決めた約束を守ることは配偶者に求めますが、妻に「全面的な共感」なんて求めてませんよ。僕みたいな変な男のことを「理解してくれ」なんて言ったら申し訳ないもの(笑)。

永井:コントラクトで合意を形成し、個人というよりは集団で考えていきましょう、ということですよね。私はもともと、集団内での合意形成って「共感しない自由」がある以上は、法的な枠組みの中でやるしかないんじゃないかって思っていました。たとえば「人権は権利として定められているので、義務的にみんなちゃんと尊重しましょう」ですとか。
 だけどやっぱり、程度の問題なのかなとも思います。であれば、市民のあいだでボトムアップで合意形成をするやり方の方がいいのだろうか、でもどんなやり方がよいのだろうか......というふうに迷ってしまっています。ボトムアップで合意形成をするための鍵って、何かあったりするんですか?

内田:それができたら人類は完成の域に達しますよね。なかなかそこまですぐにはいかないと思います。ただ、「合意形成はできた方がいい」ということについての合意形成は取れたほうがいい。対話できないよりは対話できたほうがいい。
それぞれに立場があるけれど、合意したり対話したりするためには、いったん自分の立場を離れてみる。「集団全体としては何が一番いいのか」ということに関して、みんなで知恵を出し合う。そういう合意形成の訓練はもっと小さい頃からした方がいいと思います。
 勘違いしている人が多いんですけど、合意形成って「誰かが正しい意見を言って、周りの人間を説得してその意見に従わせる」というものではないんです。そうではなく、「みんなが同じくらいに不満足な解を出す」ってことなんです。全員が同程度に不満というのが「落としどころ」なんです。それを勘違いして、合意形成というのを「全員の意見が一致すること」だと思っている。「Win-Win」なんて無理なんですよ。そんな奇跡的な解はふつうはまずありません。合意形成でとりあえず目指すのは「みんなの不満の度合いを揃える」ということなんです。誰かが正解を述べているので、説得するなり、多数決で抑え込むなりして、その正解に従わせるということではない。そうじゃなくて、全員が「俺の言ってることも変だけど、みんなも変」というところから出発して、誰かが際立って損をするようなことがない解を探り当てる。それが合意形成なんですね。
法社会学者の川島武宜が『日本人の法意識』という面白い本を書いているんですけど、そこで日本の伝統的な合意形成の方法の一つが紹介されています。歌舞伎に『三人吉三廓初買』という演目があります。お嬢吉三という悪者が夜鷹を殺して百両を手に入れる。それを見ていたお坊吉三という悪者が「それをよこせ」と言ってワルモノ同士の殺し合いが始まる。そこに和尚吉三が仲裁に入る。この時にどうやってトラブルを収めるかというと、「百両を二つに割って五十両ずつ納めてくれ。それでは足りないだろうから、その代わり俺の両腕を切って、一本ずつ受け取り、それで気持ちを鎮めてくれないか」と言うわけです。この提案に感動して、三人は義兄弟の契りを結ぶ、という話です。
こういう話って、昔からあるんです。合意形成に持ち込むためには、全員が同じ程度に不満足である解を見つけなければならない。そして、合意とりまとめを主導する人間には一番たくさん「持ち出し」をする覚悟が要る。『三方一両損』で大岡越前が出す一両も、『三人吉三』で和尚吉三が出す両腕も、本来ならば彼らにはそんなものを出す義理はないんです。でも、それを「持ち出す」覚悟を示すことで合意形成を主導できる。そういうものなんです。
 現代人はそういった合意形成の要諦をもう忘れていて、「一番正しい意見にみんな従うべきだ」と思っている。合意形成は「Lose-Lose-Lose」の「三方一両損」なんです。だから、「しようがねえなあ。じゃあ、これで手を打つか」という舌打ちとともに終われば上等で、最後にみんなで万歳というようなことは期待しちゃいけない。

永井:とても納得できます。意見の優劣を競うというわけではないわけですね。それどころかプラスを消してマイナスを平等にするという。

内田:優劣を問うても仕方ないんですよ。現に意見が対立している以上は、そこにはそういう意見を持つに至った個人の歴史があり、そこに至る切ない事情があるわけです。それはある程度認めざるを得ない。みんながお互いの抜き差しならない事情を認め合うことでしか調停というものはできない。永井くんも紛争調停の仕事をしているわけですから、そのあたりのことは経験的にわかると思います。

永井:今日のお話で、「個人の感情の器には限りがあるけれど、全員が同じようにパワーアップするのではなく、社会全体でパワーアップしていればいい」というのはたしかになと思いました。

内田:一人でやっているだけではつねに無力感に打ちひしがれてしまうでしょう。自分一人でできることは限られているから。一人だけで何とかしようとしたら、絶望的な気分になる。それで当然なんです。だから、つながればいい。でも、それは「共感」とか「絆」とか「ワンチーム」とかいうものではない。「それぞれの場所で、自分に割り当てられた仕事を果たす」ということなんです。
 暗闇の中でたった一人で敵陣に向かって銃を撃っているときに、遠くで誰かが同じように敵陣に向かって撃っている銃火が見える。「戦っているのはオレ一人じゃないんだ」と思えると戦い続ける元気が出てくる。それは共感ではないし、相互理解でもないし、同志的連帯というほどのものでもない。「オレも頑張っているけど、あそこでも誰か頑張っている人がいる」というだけのことです。でも、それだけでも、人間ってずいぶんと強くなれる。
 もちろん、自分一人で問題を解決できるほどに強くなれれば、それに越したことはありません。しかし、原理主義的にあらゆる人間に向かって「おばあさんに席を譲れ!」とか言えないですよね。中学生だったら注意できるけれど、ヤクザだったら二の足を踏む。それは仕方がないことです。そういう時は、「もうちょっと強くなりたい」と思う。その方向に向かってそれからこつこつと努力する。それでいいんです。

永井:原理主義的に考えすぎず、もう少し気楽にというか、懐深く構えようと。

内田:そうです。「人間としてあるべき条件」を吊り上げるのは決してよいことじゃない。「人間の条件」を満たす人を減らすだけの話だから。

永井:私も、御子柴善之先生とお話したときに言われたのが、「頭ではわかるんだけど、体が動かないというのは、何もおかしい話じゃないんですよ」と。でも、「人間としての責任を......」みたいなことを語ってしまいたくなってしまう。同じ人間だから、とするからこそ、時に排他的にもなるし攻撃的にもなりえることもわかりつつなんですけどね。

内田:長く仕事を続けたいと思ったら、呼吸をするようにできる仕事をすることです。自分の能力をはるかに超えたような目標は掲げない。三度のご飯を食べて、お風呂に入って、8時間眠って、家族を持って、生計を立てて、時々は息抜きをして遊んで...ということをしながらでも十分にできる仕事をする。毎日こつこつと継続できる仕事がいつの間にか最も遠くまで僕たちをつれていってくれるんです。